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2020年8月2日(日)説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2020.8.2 ローマの信徒への手紙14:10-23 「いのちの窓を開く」  望月修治    

◆ イエスは語っています。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ福音書5:9) そして今日の箇所でパウロは語っています。17節です。「神の国は、・・・聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」 「平和」と訳されているのはいずれも「エイレーネ」という言葉です。この言葉はただ平穏無事であるとか、戦争や争いがないことを指しているのではなく、いっさいの事柄が互いに生かし合い、支え合うということにおいて、正常な状態、本体のあるべき状態にあることを意味しています。神に対して、あるいは人間がお互い同士、信頼して共にあり、共に歩み、共に生きること、それが毎日の生活の中で具体化されていくことこそ大事なのだと分かり合えること、それが「平和を実現する」とイエスが語ったことの中身なのです。

◆ 聖書が平和を語るステージとして提示しているのは、私たちの日常の暮らしなのだと思います。それは今日の箇所でパウロが食べ物という一番身近なものをめぐる対立を取り上げて、平和のことを、神の働きのことを語っているからです。2千年前、ローマの教会には弱い者と呼ばれていたグループと強い者と呼ばれていたグループがあって、両者は対立を重ねていました。その主たる原因は、「食べ物」と「特定の日」をめぐる食い違いにありました。飲み食いのことで亀裂が入る。これを「そんなことで」と一笑に付すことはできません。人は違うということに対する受けとめがまことに貧弱だからです。それゆえに、こんなことで思い違いが原因となって、いさかいや対立や争いを重ねてきました。自分と違う立場、自分と違う見方、自分と違う価値観をもった他者を認めない、排除する、さげすむ、差別する。違っていることに対するそのような貧しい向き合い方を人は繰り返してきました。この立場の違いによる対立、反目に対してパウロは深い懸念を抱きました。それは6節に「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のためにたべる。神に感謝しているからです」とあるように、対立の理由が福音理解の違いに原因があったからです。信仰理解、福音理解にかかわることだと思い込むと、人は自分の立場を容易には変えません。いや変えられません。

◆ パウロはこの状況の根の深さを憂いて「もう互いに裁き合わないようにしよう」とローマの教会の人たちに宛てた手紙に書きました。裁き合うことをやめるためにはどうしたらいいのか。それは「つまずきになるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心する」ことだと書いています。人をさばくことは、その人の前につまずきとなる物や妨げとなるものを置くのと同じことなのだということです。「つまずきとなるもの」「妨げとなるもの」とパウロは語っていますが、この二つはよく似ているようにも思えますが、しかし、ただ思いつきのように二つの言葉を並べたわけでありません。人を裁くという場合の二つの面をパウロはここで述べているのです。

◆ 「つまずきとなるもの」とは原語で「スカンダロン」という言葉です。「スキャンダル」という言葉は、スカンダロンから派生した言葉です。「つまづきとなるもの」とは、人をつまずかせるためにわざと邪魔物を置くことです。躓かせるために意図的に置かれた石のことをいいます。故意に、意図的に他の人の前に「つまずきとなるもの」を置くことは、悲しいことです。しかしわたしたちの社会では日常的になされています。

◆ 「妨げとなるもの」とは、たとえば道に石が転がっているというように、偶然に置かれた妨げのことです。私たちは自分が意図しなくても、自分が語った言葉や振る舞いが誰かを傷つけたり、悲しませたりしてしまうことがあります。昔あるユダヤ教のラビはこう言いました。「もしイスラエルのひとりを躓かせるなら、それはイスラエル全体をつまずかせるようなものだ。」こんなふうに表現されると、つまずきを与えることの重大さ、あるいは恐ろしさが身にしみます。イエスも次のように語っています。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人を躓かせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」(マタイ福音書18:6)この言葉も人につまずきを与えることの重大さを語っています。

◆ 同時にこの言葉は私にとっての他者、私たちにとって他者が存在することの深い意味を語ってくれていると思うのです。人は自分が存在している意味、「わたしはだれ」という問いを自分の内部に向け、そこになにか自分だけに固有なものをさがし出すことで答えを得ようとします。けれども、おそらくそこに答えは見つかりません。自分がもっている才能や力、知識や技術が自分の存在を意味あるものにするのではないからです。そうではなく誰か他の人から自分が必要とされている、自分がいることを喜んでもらえる、その中に、人は自分の存在を、自分が生きている意味、生きていていいのだという確認を見出すことができるのです。

◆ 「わたしはだれ」という問いには普遍的にあてはまる答えは存在しません。人はそれぞれ、自分の歩んでいる道で誰かに出会って、その人から「よく来て下さった」「本当に助かりました」「とても嬉しかった」「励まされました」「元気が出ました」そう言ってもらえたとき、私たちは「わたしはだれ」という問いへの答えを見出し、体験するのです。自分に固有なものが何もないから寂しいのではありません。まわりに誰もいないから寂しくなるのでもありません。自分がここにいることが他の誰かにとって意味があると感じられないことが、寂しいのです。たった一人でもいい。遠く離れていてもいい、自分がここにいることが誰か他の人にとって何らかの意味をもっていること、そのことを感じることができれば、人は自分が生きていること、存在していることの意味に気付けるのです。自分が誰か他の人の気持ちの宛先であるということ、誰かから自分の気持ちを書き送るから受け取ってほしいと思ってもらえていること、あなたに聞いてほしいから語りかけたいと思ってもらえること、他の誰かの中に自分が何らかの形で意味のある存在として、必要な存在として場所をしめていると感じるとき、生きる力が与えられるのです。

◆ 神は人が心の窓を外に向かって開け放つとき、いのちの息を吹き込み、さあ一緒に生きようと促すのです。パウロが食べ物やどの日を守るか否かを巡って争い、さもそのことが本質であるかのように、それを抜きにしたら自分の信仰が倒れてしまうかのように対立してしまっているローマの教会の人たちに向かって、「主のために」「主イエスによって」という風を届けようとしました。外からの視点を心の窓を開いて迎えることによって、ローマの教会の中に渦巻いていた対立を解きほぐす方向を示そうとしたのではないか。その願いを込めてこの手紙をパウロは、まだ訪れたことがないローマの教会に向けて書いたのだと思いました。

◆ 平和を実現する、それは外に向かって心の窓を開くことから始まります。違っていることに向き合うことに誠実である生き方を見失うとき、平和は崩れます。その愚かさを私たちは歴史の中に確かめ直し、平和聖日を一人一人へ神の語りかけを聞く日として覚えたいと思いました。

2020年8月16日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2020年8月16日(日)
聖霊降臨節第12主日
説 教:「世に打ち勝つ信仰」
    同志社女子大学准教授 山下智子

聖 書:ヨハネの手紙Ⅰ 5章1-5節
招 詞:詩編100編1-2節
讃美歌:24, 484(1番・2番), 494(1番・3番), 91(1番)


(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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