SSブログ

2020年5月31日 説教要旨 [説教要旨]

ペンテコステ礼拝 使徒言行録2:1-11 「それぞれの帰郷」 望月修治    

◆ ペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝を守ります。ユダヤでは過越祭から50日目に春の収穫を祝う五旬祭が行われます。イエスが十字架にかけられて処刑され、その3日後に復活するという出来事が起こった年も五旬祭の時が巡ってきました。その祭りの日に、突然、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、エルサレムの町の、とある家に身を潜めるように集まっていた弟子たち一人一人の上にとどまるという不思議な出来事が起こりました。この出来事をキリスト教会はペンテコステ、聖霊降臨として記念し礼拝を守ってきました。

◆ 聖霊降臨の出来事を記した使徒言行録2章は言葉の物語です。この物語には、聖霊、つまり神の働きかけを受けた弟子たちが「〝霊〟が語らせるままに、ほかの国の言葉で話し出した」とあり、それを聞いた人々はあっけにとられ、「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」と驚き怪しんだと記されています。使徒言行録を書いたルカは、言葉をめぐる不思議な出来事を記録したこの物語によって、何を語ろうとしたでしょうか。それを読み解く手がかりは、もう一つの言葉をめぐる物語が与えてくれるのではないかと思いました。旧約聖書の創世記11章バベルの塔の物語です。人間たちが自分たちの力をすべて結集して、人間以上のもの、神の領域にまで達しようと企てたというのが、バベルの塔の物語です。このような人間の思い上がりを憤った神は、塔の建築を阻止するために、それまで一つであった人間の言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにします。そしてさらに神は人間たちを全地に散らされたというのです。こうしてこの世にさまざまな言葉が生まれることになり、人間たちはお互いの言葉が理解できなくなり、意思疎通が難しくなって、ついにこの企ては挫折してしまったというのが、バベルの塔の物語の結末です。

◆ この物語が示すのは、言葉が多様だからお互いの意思疎通ができなくなっているということではありません。私たちは同じ言葉を使っていても、お互いに理解し合えなかったり、交わりを作り出すことができないという体験を少なからず持っています。問題なのは言葉が多様であることにあるのではなく、人間が高い塔を築けば天に達することができる、神のようになれるはずだと高慢になり、神との関係をないがしろにしてしまうことです。そうすると、人間と人間との関係・繋がりも崩れてしまうということに気付いていないことです。バベルの塔の物語が根本的な問題として問いかけているのはそのことです。

◆ ペンテコステの物語はこの損なわれたつながりが回復される道筋を語ります。神と人間とのつながりが回復されていくこと、それは同時に人間と人間とのつながりが回復されていく道筋でもあることを告げる物語です。ルカはその道筋を「聖霊に満たされる」という表現で語ります。人間が他者とのつながりを回復していく、それは人間同士の努力や力でなしうるのではなく、外から届く力、神の働きが届くことによって生まれるのだというのが聖書の語る回復の道筋です。

◆ そこで大切なことがあります。それは「”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」と語られていることです。バベルの塔の物語は人間の高慢を裁くために、神が人間の言葉を乱し、互いに通じ合わないようにされたと語っていました。だとすれば、つながりが回復していく道筋は、通じ合わなくなった言葉をもう一度同じ言葉に戻すことで回復させるということになるのかというとそうではないのです。弟子たちは「”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出」したというのです。このことをもう少し噛み砕いて言えば、神は人間とのつながり、人間と人間とのつながりを回復させるために、いろいろな言葉、それぞれの人が使う日常的な言葉を用いるという働き方をするということです。神は、かつてバベルで言葉を混乱させ、その結果として人間と人間との交わりも、結びつきも崩されてしまった。その関係の破れを修復し再建するために、通じ合わなくなった言葉をもう一度同じ言葉にすることによって、交わり、関係を回復させることはなさらなかったということです。

◆ 神が示した手立てはそれとは真逆でした。神は弟子たちに「ほかの国々の言葉で」語らせたとあります。弟子たちにさまざまな言葉で語らせるのは、相手に分かる言葉で語りかけようとするからです。「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」とありますから、いろいろな土地からやってきていた人々に分かるように語ったということです。故郷の言葉とはその人が生まれ育ち、生きてきた命の歩みを象徴しています。人は飾っているときには借りものの言葉で語ります。しかし命を削って何かを伝えようとするときには、暮らしの言葉つまり故郷の言葉で、自分がいろんな思いを積み重ねながら生きてきたその故郷の言葉で語るのではないでしょうか。飾ることなど吹き飛んで、自分が生きてきた暮らしの中でいつも語ってきた故郷の言葉で人は自分の思いを相手に伝えようとするのではないでしょうか。故郷の言葉を聞くとはそういうことではないのでしょうか。単によく聞き慣れた言葉を聞いて、懐かしかったというようなことではないのです。そんなことをペンテコステの物語は伝えたいのではないはずです。弟子たちは、十字架にかけられるイエスを見捨てた人たちです。イエスとのつながりを否定し、裏切った人たちです。しかし崩れ去ったそのつながりに神は手を差し伸べ、力を注ぎ、働きかけて、回復してくださった。そのことを伝えたい、語りたい、と弟子たちは思い、語るのです。だからこそ弟子たちの言葉はそこにいた人たちに、それぞれ自分たちの故郷の言葉でイエスのことを、あの十字架のイエスのことを懸命に語っていると受けとめさせていったのです。

◆ 私たちは神に助けを求めます。聖霊を送って下さい、心を燃え立たせてくださいと言います。それは神に「あなたの命を削って私に下さい」と言っていることではないのでしょうか。聖霊が降るということは、神は何も傷つかないで私たちに何かを「ああよしよし、余っているからあげるよ」そんなふうに力を注いでくださるのではないはずなのです。神は自らの命を削って私たちに命を送る、力を注ぐ、助けを差し出す、それが、聖霊が降るということなのだと思うのです。神の助けを求める、聖霊を下さいと願う、私を燃え立たせてくださいと祈り求める。その要求は、神にあなたの命を削って私に下さい、と言っていることなのだと思いが至るのです。そうでなかったら私たちの命が生きるでしょうか。余っているものをあなたにあげます、そんなあまりものをもらっても人の命が燃えるはずがない、生きるはずがないと思うのです。

◆ 言葉が伝わってくるとき、自分の心に何かその相手から動くものが伝わってくる時、それはその人が命を削ってこの私に語りかけていてくれるからなのだと気づかされます。ペンテコステの物語はそのことに気付かされ、心を満たされた人たちが刻みはじめた信仰の物語、教会のはじまりの物語なのです。私たちは、神が命を削って下さることによって生かされている、そのことをこのペンテコステの出来事の中に覚えたいと思います。

2020年6月7日 説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2020.6.4 テモテへの手紙Ⅰ 6:11-16  「旅装を整えて」 望月修治       

◆ テモテへの手紙は晩年のパウロか、あるいはパウロの死後、弟子の手によって書かれたものだと考えられます。ただこの手紙に記されている教会の組織と制度はかなり整えられていることを伺わせます。教会がそのような整えられた組織をもつようになったのは少なくとも2世紀初頭になってからのことです。だとすると、パウロの晩年というよりも、彼の死後、一世代、あるいは二世代経てから書かれた手紙だと見なすほうが妥当だということになります。弟子が師匠の名で書き、師匠を称えるのは、古代世界では一般的に行われていたことです。

◆ さてこの手紙が書かれた時代状況ですが、1:3-4に「異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心をうばわれたりしないように」とあります。ですので、この手紙が書かれた2世紀初頭には、ユダヤの人々が自分の系図をイスラエルの祖先と結びつけることに躍起になっていたことが伺えます。信仰の父と言われたアブラハムや、紀元前10世紀にイスラエルに繁栄の時代をもたらした王ダビデなど、先祖たちとの関係を捏造した系図を作り、自分の権威を高めようとしたのです。

◆ そのような状況にあった2世紀初頭の教会に向けて、特に牧会者に対する注意や勧告をするとともに、教会の制度についても見直すことを促すために書かれたのがこのテモテへの手紙です。この手紙からは、当時の教会の状態に危機感を覚えている書き手の思いが伝わってきます。それでは、この手紙を書いた人は、なぜパウロからテモテに宛てた手紙という形をとったのでしょうか。それは伝道者としての二人の生き方を手本として示したかったからです。系図を捏造してまで自分の権威を高めようと躍起になっている教会の人たちに、パウロとテモテが自分たちは神から遣わされたのだという自覚をもち続け、お互いの働きに敬意をもち、伝道者としての務めを果たして行くために心を砕いた、その二人の生き方を思い起こさせたいと願ったからだと思います。

◆ ただしです。今日の箇所を読んでいますと、肩が重くなってきます。11-12節にはこう記されています。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」ひとつひとつの言葉が重い、いや重過ぎるなと思います。さらに13節そして14節と読み進むとその重さは一層肩に食い込んできます。「ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。・・・おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。」ここまで言われると何かもう逃げ出したくなりませんか。私はそんなに立派にはとても生きられません、と言ってしまいたくなります。

◆ イエスという方はこのようなことを弟子たちに求めた方でしょうか。そして私たちに求める方でしょうか。聖書は「信仰の戦いを立派に戦い抜いた」人たちに見習えという偉人伝ではありません。むしろ逆です。聖書の物語で最初に登場する人間はエデンの園のアダムとエバですが、その最初から破れと失敗続きです。二人は「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という神の言葉に背いてその実を食べエデンの園を追われます。アダムとエバの二人の息子カインとアベルは、兄のカインが自分の献げ物に神が目を止められなかったことを妬んで、弟アベルを殺してしまいます。ノアの物語では人間たちに悪が増し、常に悪いことばかりに走るので、神が地上に洪水を起こし人間たちをノアとその家族を除いて滅ぼしてしまいます。それでも人間は懲りません。ノアの子孫たちは天まで届く塔を作れば神のようになれると思い上がり、神によって互いの言葉を通じ合わなくさせられてしまいます。

◆ 紀元前2000年頃、イスラエル民族の第一世代であるアブラハムは自分が百歳、妻サラが九十歳の時に「あなたがたに子供が与えられる」と語った神の言葉に平伏しながら「そんなことはあり得ない」と密かに神の言葉を嘲笑います。孫のエサウとヤコブの場合は、弟のヤコブが年老いた父イサクをだまし、本来なら長男エサウが受け継ぐべき権利を奪いとってしまいます。ヤコブの11番目の息子ヨセフは兄たちや両親までもが自分を拝むという夢を見たと自慢たらしく語り、兄たちの怒りを買ってエジプトに奴隷として売られてしまいます。

◆ さらに物語は続きます。ヨセフの時代から数百年後、モーセはエジプトで奴隷として強制労働に駆り出されていた同胞のイスラエル人を鞭打つエジプト人の現場監督を殺してしまいエジプトを追われます。紀元前10世紀、イエラエルは統一王国を形成しますが、初代の王サウルは台頭してきたダビデに疑心暗鬼となり命を狙い続けます。王位を継承したダビデはイスラエルに繁栄をもたらしますが、部下の妻を奪い取ります。そしてさらに時代は下り、イエスの弟子たちは十字架の出来事のときに、皆イエスを見捨て、裏切り、逃げ去りました。

◆ 「信仰の戦いを立派に戦い抜き」などとはとても言えない「破れと失敗」の物語が綿綿と聖書に綴られています。なぜ聖書は人間たちの破れをここまで書きとどめ、書き連ねるのでしょうか。それが人間の現実だからでしょうか。それもありますが、人間にとって破れや失敗に意味があるからなのだと思います。破れと失敗という窓から見えるものがある。それは私たちが生きるということにおいて、大切なものなのです。いや大切なものは破れから初めて見えるのではないか。失敗したことで始めて気づき、発見できるものなのではないか。神様が働いていてくださるという事実、その確かな真実は、私たちの人生に破れや失敗という穴が空いたときに、初めて出会えるものなのであり、納得できることなのです。その真理に気付き、受け止めて生きてほしい、歩んでほしい、それが神の意志であり、思いだからこそ、聖書は人間の破れと失敗の物語を綴ったのではないでしょうか。そしてそのひとつひとつは人間の物語を語りつつ、実は神の働きを物語っているのです。

◆ 大切なものを自分の破れという窓、失敗という体験から知り、体得するという仕組みが人の命に与えてられているのは、神の深い知恵であり、取り計らいなのだと思います。なぜなら立派なことをするというのは誰もができるわけでは必ずしもなく限られるけれど、失敗や破れは誰もが体験し持っているからです。誰もが持っているものを通して神は私たちにご自分を啓示し、語りかけ、大切なことに気づくように私たちを促すのです。私たちに差し出される神の赦しと計らいの深さ、そのことに思いが至るとき、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。」「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」という言葉は、肩に重く食い込む言葉ではなく、私たちが神から赦されてあることのとんでもなさに、少しでも応えて生きてみようとする再生の道、生き方を新しく組み立てなおしてみようと歩み出す時の方向を示す「未来予想図」として読み直させられるのではないかと思いました。

◆ イエスはそんな私たちにこう語りかけます。ルカによる福音書22:32 「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。