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2020年6月21日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次週の礼拝(YouTubeライブによるオンライン礼拝です)
2020年6月21日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第4主日

説 教:「 真理の語り部 」
    牧師 望月修治
聖 書:ヨハネの手紙Ⅰ 2章22〜29節
招 詞: ハバクク書 2章23節
讃美歌:28、494、504、91(1番)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

2020年5月24日 説教要旨       [説教要旨]

ヨハネによる福音書7:32-29 「わたしが帰る場所」 望月修治      

◆ ヨハネによる福音書7章は祭りの物語です。ユダヤ暦でティシュリの月(10月初旬ごろ)の15日から7日間行われる仮庵の祭が本日の聖書箇所の舞台です。ユダヤの祖先たちはエジプトを脱出して40年間も荒れ野の旅をしました。定住の土地がありませんでしたから、旅の先々でいつも仮小屋を造りました。この祖先たちの荒れ野時代を思い起こし記念する祭が仮庵の祭です。1週間にわたって続く祭りの期間中、人々はふだん生活している家を出て、木の枝や葉を使って造った仮小屋に住みました。祭りの7日間、毎日朝になると、祭司は神殿の丘を下ってシロアムの池に行きます。そして湧き出ている水を黄金の桶で汲みます。すると神殿で音楽が奏でられ、合唱隊は預言者の言葉を音楽にのせて歌います。祭司は「水の門」と呼ばれていた門を通って神殿に戻り、犠牲を捧げる祭壇にこの水を注ぎます。これはイスラエルの民が荒れ野の旅をしている間に、岩からほとばしり出る水によって養われたことを記念するものです。さらにイザヤ書44:3に「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える」と預言されている言葉が成就することを示すものでもありました。

◆ この仮庵の祭りが最高潮に達しているところで、イエスが突然立ち上がって大声で叫びました。「乾いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。」誰が乾いているというのでしょうか。祭司が黄金の桶から水を祭壇に注ぐときには、人々はシーンと静まりかえります。その静寂の間に分け入るかのように祭壇にかかる水の音だけが響き渡ります。水が注がれる音が群衆の耳に達すると、人々は一斉に喜びの叫びをあげます。ほとんど喧騒と言ってよいほどの騒音となって鳴り響きます。その喧騒にあたかも挑むかのように、イエスは「乾いている人はだれでも」と大声で叫んだのです。

◆ 祭壇に水を注ぐという行為は、元来は一種の雨乞いであったと考えられています。パレスチナは1年の半分以上、ほとんど雨が降らず、気温が40度を越える乾季が続きます。人々は、水が涸れることの恐ろしさをよく知っていました。水がなければ人は生きることができません。水を祭壇に注ぎ、神に、自分たちを見離さず水を与え続けてください、と祈り願いました。それは渇きに対する不安の裏返しです。一生懸命雨乞いをしても、渇きへの不安はいつも根っこにあり続けている。それを忘れようとして、人々は祭りに興じていたのかも知れません。イエスはそのような人々に向かって大声で呼びかけたのです。「乾いている人は誰でも、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が流れ出るようになる。」イエスの言葉が人々に波紋を起こしました。その反応が40節以下に記されています。こんな言葉が語り合われました。「この人は、本当にあの預言者だ」「この人はメシアだ」「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」。そして、イエスのことをめぐって群衆の間に対立が生まれたというのです。

◆ エルサレムにはイエスについてのさまざまな噂や興味が渦巻いていきました。その多くは、これまでイエスが示してきた不思議な働きや出来事に対する表面的な興味であったと思われます。人の病気を癒すとか、五千人の人たちの空腹をパン5つと魚2匹を配ることで満たすといった出来事が、人々の興味と期待をあおることになったのは事実です。人はいつも刺激を求めます。一つの刺激に慣れてくると、また新しい刺激を求めます。そしてそれが与えられなくなると興味や意気込みを失ってしまうのです。奇跡を求めると、さらに次の奇跡を求め、そのことによって得られる刺激や驚きを得ることが目的のようになってしまいます。信仰とはそういう刺激を得ることだと考えてしまう。そして当初の新鮮さが失われていくと、生ぬるいとか熱心さが足りないと言って、去ってしまう人がいます。

◆ イエスに更なる奇跡を求める薄っぺらな興味や関心が広がる一方で、それと背中合わせのように競り上がってくる反感や殺意がエルサレムには渦を巻いていました。その大きなきっかけになったのはイエスが自分のことを「わたしは命のパンである。」(6:35)「わたしは天から降ってきたパンである」(6:41)と語ったことによっています。その言葉に大きく反発して行く人々の様子をヨハネは6章で次のように描写しています。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている」、(6:42)「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」(6:60)そう言って、多くの弟子たちさえもイエスのもとを離れ去り、もはや共に歩まなくなったと福音書は記しています。

◆ 事態が深刻さを増していることはイエスも肌身に感じていたはずです。33節で「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」とイエスも語っているからです。「自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」というのは一見穏やかな表現ですが、十字架の出来事であることは明白です。危機があらわになり始めていました。そのような状況の中で、しかも仮庵の祭りの最終日、祭りが最も盛大に祝われる時に、「乾いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と大声で語る。そのように語りうるのはなぜなのか。その理由は「自分をお遣わしになった方」というイエスの言葉に示されています。このことをイエスは繰り返し繰り返し語っています。5:36「父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」6:29「神がお遣わしになった者を信じること」、6:57「生きておられる父がわたしをお遣わしになり」7:29「その方がわたしをお遣わしになったのである」。イエスは自分の存在の根拠を自分の中の何かには置かない。自分の持っているものには一切置かなかった人です。存在することの根拠、意味、目的、価値は外から与えられる。それがイエスの生を支えています。

◆ 私たちは、自分の人生において思ってもみなかったことが起こると、「こんなはずじゃなかった」と呟きます。突然病気になる。試験に失敗する。仕事がうまく行かない。簡単にできると思っていたことがそうはならなかった。「こんなはずじゃなかった」のです。人生は予定通りにはいきません。それでも、その自分の人生が無駄なものではなかった、呪われたものでも、不条理なものでもなく、「この時のためにこそ」あったのだと思える日がもし訪れるとしたら、「でもこれが本当なのだ」と言える時がもし来るとすれば、それはどこからもたらされるのか。

◆ イエスは語ります。「わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 聖書はわたしに、私たちに命を与えてくださったのは神だと語ります。創世記2:7で「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と語られている通りです。私たちは自分の人生を過去と今しか見ることはできません。しかし私たちに人生を与えてくださる神は、その全てを知っておられます。私たちが知らない将来も知っておられます、このような神がおられ、私たちの人生を確かに守り、必要なものをすべて与えて、私たちを育んでくださる、そのことを知った時、「こんなはずじゃなかった」という人生から「でもこれが本当なのだ」、自分のこれまでの人生は「この時のためにこそ」あったのだと思える日が来るのです。そしてその日は「その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる」とイエスが語った言葉をしみじみと味わい知る時なのだと思うのです。

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