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2020年3月8日(日)の説教要旨 [説教要旨]

ヨハネによる福音書9:13-41 「事情調べ」        望月修治  

◆ なぜ聖書は奇跡物語を語るのでしょうか。それが神の国の到来のしるしとして理解されたからです。あるいはイエスが示した福音を具体的な形で示していると理解されたからです。奇跡物語と聞くと、それは史実なのかフィクションなのか、本当なのか嘘なのかと呟く自分がどこかにいないでしょうか。聖書の物語を読むときに大切なのは、生の出来事そのものではなく、その出来事が担っている意味を知ることです。

◆ 今日の聖書箇所にも、イエスが行ったひとつの奇跡行為をめぐる出来事が記されています。イエスが生まれつき目の見えない人を癒したという奇跡物語です。事はある安息日に起きました。道を歩いていたイエスは、生まれつき目の見えない人を見かけました。21節によれば、両親が「わたしどもの息子はもう大人ですから」と言っていますから、それなりの年齢になっていたはずです。その年月、その一日一日をこの人はどんな思いで生きてきたのだろうかと思いが巡ります。当時のユダヤで、目が見えないという状態で生まれ、育ったこの人が、社会の中で生きていくことは厳しかったはずです。生まれつき目が見えないのは、その人があるいはその両親が罪を犯したからだと見なしたからです。宗教がすべてに影響力をおよぼしていたユダヤにおいて、「罪の結果だ」と見なされることは実に重い現実を背負うことでした。社会生活、宗教生活、そのいずれにおいても片隅に追いやられ、差別され、当然経済的にもとても立ち行かない。だから人に依存して生きて行く以外に手だてはありませんでした。イエスが見かけたこの人は「物乞いであった」と8節に記されています。おそらくエルサレムの人通りの多い道の端に座って物乞いをすることで、いくばくかの生活費を手にする、そのような毎日をこの人は過ごしてきたのだと思います。

◆ その彼を見た弟子たちは「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と思わずイエスに問いかけました。これは当時の人々に共通していた見方です。このように決め付けられた枠から逃れられない、そこで生きていくしかない。その現実に押しつぶされそうになりながら、この人は道ばたに座り込んでいました。イエスはその彼の傍らに行って、唾で土をこね、その目に塗って、彼を癒したとヨハネ福音書は記録しています。イエスに促されてシロアムの池に行ったこの人は、言われた通り池で目を洗うと見えるようになり、人々のところに帰ってきました。

◆ ところがです。彼を見た人々は喜びの声をあげたのではなく、イエスに対する批判を強めて行くのです。イエスは土をこねて目の見えなかった人に塗り、癒しました。土をこねること自体が問題なのではなく、その行為を行ったのが安息日だったことを問題にしたのです。イエスの行為は安息日に行うことが禁じられている労働だとユダヤ人たちは言い、イエスに対する敵意をつのらせたのです。

◆ 安息日に労働することを禁じた律法の規定の細かさは、私たちを大いに驚かせます。たとえば次のような規定があります。「安息日に壺に油をつめたり、それをランプのそばに置いたり、その中に灯芯の端を入れたりしてはならない。」あるいは「もし安息日に、ランプや油や灯芯を節約しようとしてランプを消す者があれば、その者は責められるべきである。」あるいはまた「安息日に釘を打ち付けた靴で外出してはならない」という規定もあります。どういうことか。釘の重さは荷物に相当する。したがって釘を打ちつけた靴で歩くことは、荷物を運ぶ労働を禁じた安息日の掟を破ることになる、というのです。また「手のつめを切ってはならず、髪の毛や髭もぬいてはならない」という規定もあります。このような律法を基準とするならば、唾で土をこねて、目の見えない人の目に塗るという行為は明らかに労働をすることになるのです。

◆ 安息日のイエスの振る舞いに対する人々の憤りは、目を癒された人に向けられました。文字通りのトバッチリです。ファリサイ派の人々は頑なです。自分たちの前に癒された人がいるのに、なお「盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった」(18節)とさえ記されています。これは何かのトリックではないかと疑ったのです。そこで彼らはこの癒された人の両親まで呼び出して事情調べをしました。「確かに私どもの息子は生まれつき目が見えませんでした」、両親の言葉でトリックなどではないことが確認されます。それでも納得できず、ユダヤ人たちは、癒された本人をもう一度呼んで問い質します。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」。これに対して彼はこう答えました。「あの方が罪人であるかどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(25節)

◆ 今日の物語の中でポイントになるのはここです。この人の目はつい先ほどまで見えなかったけれど、今は見える。これは紛れもない事実です。けれどもこの事実に対するたくさんの「なぜ」があります。大事なことは、この事実をどう受け止めるかです。9章の冒頭でイエスは「神の業がこの人に現れるためである」と語っています。なぜですかと問う弟子たちにイエスはそう答えました。生まれつき目が見えない人がいます。そしてこちら側には目が見える人たちがいます。そして思っています。「この人の目が見えないのは本人あるいは両親が罪を犯したからだ。自分は目が見えていている。罪を犯していない人間でよかった。」私もこちら側にいます。そして「私は見えている」と思っていました。「私は目が見えていてよかった。目が見えない人は気の毒だ、不幸だ。何か支えてあげられれば、何か手助けをすることができれば」とそう思っていました。口には出しませんがそう思っていました。

◆ まだ30代の頃、牧師として駆け出しの頃です。一人の盲人牧師と出会いました。中途失明された方です。あるときその方からこう言われました。「盲人にとって不幸なのは目が見えないことではありません。周りの人が無理解なことです。」 衝撃でした。胸ぐらを掴まれて揺さぶられる、そのように感じるほど大きな衝撃でした。「目が見えないことは不幸だ」と思っているお前は、いったいどこに立って物を見ているのだと激しく問われたと思いました。そのときから「生まれつきの盲人をいやす」というこの物語の読み方は私の中で全く変わりました。「神の業がこの人に現れる」、それは障がいそのものや病気の身体的な癒しを求めることではなく、社会的に排除されている人たちが、困難な中でもイエスによって力づけられ、社会の中にきちんと居場所が整えられ、喜んで自立して生きる姿に焦点をあてることこそ、本当の奇跡なのだと思っています。そしてそのためには当事者にその努力を要求するのではなく、それを排除している側に立っている私たちが、悔い改めを求められているのだと思っています。

2020年3月22日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2020年3月22日(日)午前10時30分
復活前第3主日
説 教:「なぜ香油を注ぐのか」
牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書12章1〜8節
招 詞:コリントの信徒への手紙Ⅱ1章20〜22節
交読詩編:2
讃美歌:27,18,442,567,91(1番)

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