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2020年3月1日(日)の説教要旨 [説教要旨]

マタイによる福音書4.1-11 「誰もいない場所にひとり」 望月修治    

◆ 現代を生きる私たちにとって「荒れ野」は何を意味するのでしょうか。そして聖書の時代に生きていた人々にとって「荒れ野」はどのような場所だったのでしょうか。荒れ野は岩と砂が象徴する荒涼とした世界です。人であれ、事柄であれ、それを捨てるところ、捨てられてしまう場所、あるいは逆に捨てるために出ていく場所です。荒れ野は禁欲と不自由さを強いられる場所でした。

◆ イエスは30歳を過ぎる頃「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語り、宣教活動を開始します。その始まりが荒れ野です。住む人のいない、人里離れた淋しい場所から始まります。しかもそれは初めだけではありません。3年余にわたるイエスの宣教活動は人里離れた淋しい場所での祈りに支えられています。そのことをイエスは弟子たちにもすすめました。人里離れた場所での祈りは、生涯の最後までイエスの祈りの姿でした。荒れ野は神と出会い、神と向き合う場所でもあったのです。独りになれる所で、イエスは、自分の思いではなく、神の御心に従う決断をする力を得ました。自分の言葉ではなく、神の言葉を語る勇気を、自分の業ではなく、神の業をする力を見出しました。

◆ その荒れ野に、イエスは今ひとりでいます。悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれたからだとマタイ福音書は記しています。ということは、イエスは自ら誘惑を受けに行ったということです。さらに「霊に導かれて」ということですから、神がイエスを荒れ野に導いたということになります。しかもその状況でイエスは40日間、昼も夜も断食をし、空腹を覚えたというのです。本当に弱っています。その弱さの極みでイエスは誘惑を受けたのです。かなり危うい状況に身を置いたことになります。

◆ なぜこのような踏み込み方をするのでしょうか。救い主として伝道活動を開始するのであれば、荒れ野で誘惑を受けるなどという暗いエピソードから入るのではなく、たとえばこの後12節から書かれているような、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って宣べ伝え始められたという物語からはじめてもよかったのではないか。しかしマタイは荒れ野でイエスが受け身ではなく、自ら意図的に誘惑を受けたと記しています。それは、この荒れ野での誘惑にイエスがどのように向きあったのかがイエスの生き方、イエスが救い主であることの意味を明らかにするからです。それゆえに伝道活動の冒頭にこの出来事が語られているのだと思います。

◆ 40日間の断食で弱っているイエスに悪魔は、「神の子なら」と語りかけます。「神の子なら、石がパンになるように命じてみたらどうですか」「神の子なら、神殿の屋根から飛び降りて天使が支えるのをみんなに見せたらどうですか」 イエスを誘惑する悪魔は、イエスが神の子であるということの中身は何か、イエスは神をどのように見ているのか、それを試すのです。伝道活動を開始する前に、そのような悪魔の試みをイエスが自ら受けたということは、伝道の旅のなかで出会って行くさまざまな人々から同様の試みをイエスが受けることになるということを先取りする形で語っているのです。誘惑する者として登場している悪魔は、私たちのことではないかと、ふと思います。人は神に対してあれこれと理屈を言い、難題をふっかけ、試そうとするからです。

◆ 人は、自分が信頼するに足ると思える神を探そうとします。そのために神を試すのです。そして確かだと思われる神に取りすがろうとします。悪魔はイエスに、そのような人間の思いに応えてやったらどうですかと言っているのです。神の子なら神殿の屋根の上から身を投げて、天使がその体を支えるところを見せてあげたら、人々は確かに、イエスが神の子であると納得するはずですよ。人々は皆救いを待っているのです。もしもイエスの言うことが本当なら信じようかと思っているのです。その「もしも」という疑いを一挙に取り払うために、もっとも効果があるのはしるしを、誰もが納得するしるしを見せてあげることです。だから「神の子なら、飛び降りたらどうですか。天使たちが手でささえてくれるしょうから」と悪魔は誘い、試すのです。

◆ しかしイエスはこれを拒否します。その理由は主なるあなたの神を試みることになるからだというのです。7節に、イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われたとありますが、この言葉は旧約聖書の申命記6:16からの引用です。そしてその申命記の記事の背景にあるのは、出エジプト記の17章に記されている出来事です。モーセに導かれてエジプトでの苦役から逃れ出ることができたイスラエルの人々が、荒れ野の旅の生活が続くため、飲み水がなくなるという危機にさらされました。その試練の中で、人々は自分たちをこのような渇きのどん底に陥れるような神など、そもそも神の名に値するのかと問い、モーセに詰め寄るのです。それでも神の名に値するというのなら、それを証明せよと迫ったのです。神はわたしたちと共にいてくださるなどというけれど、そんな当てにならない話があるか。もしそのことが本当ならば、神がそのことを証明して見せてくれなければいけない。そうでなければ信じることなど出来ないと言ったのです。自分たちをエジプトから導きだ出した神を、本当の神なのかと疑い、試したのです。

◆ このような出来事を受けて、申命記の6章に次のように記されているのです。「あなたの神、主を試みてはならない。あなたがたの神、主があなたがたに命じられた命令と、あかしと、定めとを、努めて守らねばならない」。イエスが悪魔に語ったのは、この申命記の言葉です。イスラエルの人々が神を試みたのは、まことに同情するに値すると言えなくもありません。神は約束を破ってしまったのではないのかと思わざるを得ない状況に追い込まれたから、神に、あなたが砂漠での苦しみが続くこの状況でも生きて働いておられるのなら、そのしるしを見せてほしいと、言ったのです。それを批判できないと思います。私たちも繰り返していることだからです。

◆ しかし申命記の記事は、それは間違いだというのです。あくまで「あなたの神、主を試みてはならない」と述べています。そしてイエスはその言葉を荒れ野の誘惑の中で引用するのです。神を試み、私たちが納得したところで初めて、この神について行こう、この神は間違いないと私たちが決める。そのように考えるところに信仰が成り立つのか、そこに本当の意味で神と私たちとの関係が成り立つのか、救いがもたらされるのか。そういう形では信仰は生まれないのだとイエスは言うのです。「苦しい時の神頼み」とよく言われますが、それと同様にいやそれ以上に「苦しい時の神離れ」ということがあるのではないか。これまで一生懸命信じて来たのだから、それに値するような恵みのしるしを見せて下さればと思うのに、その恵みがいっこうに見えてこない。神がわたしたちと共にいて下さるのなら、わたしに対してこんな扱いをするはずはないではないか、神さま、こんな時こそあなたの実力を示して下さるべき時ではないのですかと問うのが私たちです。そのような時のわたしたちの心は、イエスを「神殿の上から飛び降りてはどうですか」と試す悪魔の心と同じです。

◆ なぜ神を試みてはならないのか。神はすべて命あるものの主だからです。「あなたの神である主」とイエスは語っています。神は、私たちが自分たちにとって役に立つ神か否かを試し量る前から、そんなことはお構いなしに、わたしたちに呼びかけ働いておられる。人間が自分では解決できない罪や負債を引き受け、共にいてくださる。神はそのように働くのだと教えるのがキリスト教の信仰です。

2020年3月15日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2020年3月15日(日)午前10時30分
復活前第4主日
説 教:「実にひどい話」
牧師 髙田太
聖 書:ヨハネによる福音書6章60〜71節
招 詞:ガラテヤの信徒への手紙2章20節
交読詩編:90;1-12
讃美歌:28,51,298,405,91(1番)
聖歌隊合唱:「Ave verum corpus」
(モーツァルト)

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