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2020年1月19日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2020年1月19日(日)午前10時30分
降誕節第4主日
説 教:「はじめての従者」
牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書1章35〜51節
招 詞:ガラテヤの信徒へ手紙1章11~12節
交読詩編:119;9-16
讃美歌:24,218,98,448,91(1番)
合 唱:庭上の一寒梅
◎礼拝場所は神学館礼拝堂です。

2020年1月12日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2020.1.12  ヨハネによる福音書1:29-34 「真逆の捧げ物」     望月修治  

◆ 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」、この言葉は救い主イエスの生涯を的確に言い表しています。語ったのはバプテスマのヨハネです。そしてヨハネ福音書が語ろうとするバプテスマのヨハネの役割を端的に示している言葉でもあります。マタイ、マルコ、ルカの福音書に描かれるヨハネの主たる役割は、イエスに洗礼を授けることです。これに対してヨハネ福音書が語るヨハネの役割はイエス・キリストを証しすることにあります。イエスが救い主であるというのはどういうことかを明らかにする、それを福音書記者のヨハネは、バプテスマのヨハネに「世の罪を取り除く神の小羊」と語らせることで示したのです。

◆ バプテスマのヨハネはイエスの登場に先立って活動を始めました。荒れ野を生活の場とし、らくだの毛衣を着て、腰には革の帯を締め、いなごと野密を食べ物としました。彼の教えの要点は、神の裁きが近いうちに起こる、だから今までの生活を悔い改めて、神のもとに立ち帰り、そのしるしとして洗礼を受けよということ。もう一つは「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな」ということでした。ユダヤの人々にとって、アブラハムの子孫であるということは自分たちが特別に神から選ばれた存在であることを意味していました。しかしヨハネはそのような受け止め方を否定したのです。ユダヤ人であろうとなかろうと全ての人が、地位や身分に関係なく、罪の中にある存在なのだと言うことをヨハネは強調しました。なぜならヨハネは誰もが神を忘れ、神から遠ざかり、神に逆らって自分勝手に生きていると見たのであり、それゆえ神が怒り人々を滅ぼす時が迫っているということを、彼は激烈な言葉で訴えたのです。

◆ この訴えは人々の強い関心を引き起こしました。そしてユダヤの人々は、自分たちが長い間待ち望んできたメシアはひょっとしたらヨハネその人ではないのかという期待感をふくらませていきました。しかしヨハネは「わたしは、その履き物のひもを解く資格もない」いう表現で(1:27)と表現しています。「履き物のひもを解く」のは、当時、奴隷がする仕事の中でも最も卑しい仕事だとされていました。ですから奴隷が同胞であるユダヤ人である場合には、そこまでさせてはならないことになっていました。また弟子はその師匠のためには奴隷がするのと同じことを全て行うように求められていましたが、ただ履き物のひもを解くことだけは免除されていました。「履き物のひもを解く」とは当時それほどに低く見られていた仕事だったのです。しかしヨハネは自分とメシアとの相違は、この履き物のひもを解く資格さえないほどに大きいのだと語りました。これは強烈な譬えです。

◆ このようにバプテスマのヨハネは自分とメシアとの間にいかに大きな相違があるかを人々に語るのです。だとするとヨハネの役割というのは何なのでしょうか。バプテスマのヨハネはしばしばイエスの先駆者と呼ばれるのですが、それは時間的に少し早く活動し、イエスのすごさを際だたせる役割を担ったということなのでしょうか。始めに申し上げましたように、バプテスマのヨハネのことは4つの福音書の何れにもイエスの登場に先立って記されています。すなわちイエスの福音が語り伝えられるところでは、バプテスマのヨハネの語ったことも省略されずに語られてきたということです。これはイエスの登場を際だたせるということではなくて、イエスの福音の意味を理解する上でヨハネの行動や教えは非常に重要な役割を担っているからなのです。

◆ ヨハネはイエスのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました。ユダヤでは旧約聖書の時代から小羊は、祭りの時に人々の罪を贖う犠牲として神に献げられてきました。ヨハネがイエスのことを小羊に譬えて語る、しかも単に小羊ではなく「神の小羊」と呼んでいます。小羊は人間が自分の罪の贖いとして献げていく犠牲の動物です。しかしバプテスマのヨハネは、イエスを神が献げる小羊なのだと語りました。執り成しをしてもらわなければならない側が献げるのは分かります。しかし「神の小羊」というのは、全く逆です。執り成しをする側、罪を許す側が献げる小羊のことです。イエスはそのような意味での「犠牲の小羊」なのだとヨハネは語ったのです。

◆ なぜ許す側が犠牲の動物を献げるのか。そこには神の強い意志が示されています。なんとしてでも命を救いへと導こうとする造り主の覚悟を、一番大切でかけがえのないものを「神の子羊」としてあえて差し出すことで啓示するのです。いや命を生きることの重さはそうしなければ示し得なかったのだと思うのです。人が今生きている命、それは己れのものだと思い上がる。その人間に、生きてあることの重さと途方もない奥深さを神は一人一人に気づかせ、本当にそうだとうなずいてほしいのです。

◆ エフェソの信徒への手紙2:10にこう記されています。「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった良い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。」 「神に造られたもの」は「神の作品」とも訳されます。神の手による命の芸術品、神の手造りの作品です。神が愛と心と力を込めて造られた存在です。規格品ではなく、一人ひとり尊くかけがえのない存在なのです。歴史の中でこれまで誰も同じ人間は存在せず、これからも存在しません。けれども人が生きる道は思い通りにはいきません。そんなとき自分のような者などいなくてもいいと思ってしまう。あるいは、事故や病気などの事情で人の世話を受けなければならなくなった時に、生きていて何になるのかと思うこともあります。そのような場合に必要なのは今置かれている現実と向き合い、何をすべきかを判断し、見極めるための指針です。

◆ ルカによる福音書17:11以下に、重い皮膚病を患っている十人の人をイエスが癒したという出来事が記されています。この物語の結論はこうです。癒された十人は大喜びで帰って行くのですが、感謝を述べるために戻ってきたのはひとりの外国人だけであった。イエスはその人にこう言いました。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」この宣言は立ち帰るという応答に対してなされたものです。神の小羊としてのイエスの生涯は、神の赦しを伝えると共に、その赦しを与えた神のもとに、感謝を述べるために帰って行くことを求めているのです。聖書は「戻る」ことだと語るのです。父のもとに、神のもとに戻ることだというのです。赦されているけれども、しかし赦しを与える神のもとに帰らなければなりません。立ち戻るという応答を求められています。与えられることだけが強調される信仰は人を生かしません。応えることが人を生かすのです。神の小羊とヨハネが呼んだイエスの歩みは、神のもとに立ち帰るという応答を促します。どのようにぼろぼろになって帰ってきても、「あなたの信仰があなたを救った」と神は言ってくださるのだというのです。ですから私たちは、週の初めに神のもとに帰る証しとしての礼拝を献げることを大切に歩みたいと思います。

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