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2020年1月12日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2020年1月12日(日)午前10時30分
降誕節第3主日
説 教:「真逆の捧げ物」
牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書1章29-34節
招 詞:イザヤ書42章5-6節
交読詩編:36:6-10
讃美歌:29,355,67,280,91(1番)

2020年1月5日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2020.1.5 ヨハネによる福音書1:14-18「言葉を宿せ、そして生きよ」 望月修治

◆ ヨハネによる福音書は、全く独自の視点でイエスが救い主であることの意味を語っています。それを象徴的に語っているのが「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という言葉です。「言」とは何か。ヨハネは福音書の冒頭にこう記しています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」言とは神であり、救い主のことです。その神が「わたしたちの間に宿られた」とルカは言うのです。「間に宿る」というのはとても興味深い表現です。いろいろなイマジネーションを喚起してくれます。

◆ 年末から正月にかけて、娘と息子の家族が帰省してきました。子供たちや孫たちに「間」と言う場合、どんな「間」が思い浮かぶかと聞いてみました。いろいろな「間」が返ってきました。「やっちゃった」という失敗から、それを受け入れ「ごめんなさい」と謝罪するまでの間、「分からない」ことが「分かる」に至る間、「敗れた」ことから「立ち上がる」までの間、「出会い」と「別れ」の間、「種まき」と「収穫」の間、「質問」と「答え」の間、「生」と「死」の間、「飼い葉桶」と「十字架」の間etc.・・・それぞれの間に、いろいろな体験、挫折、不安、迷い、悔しさ、胸の高まりなどなど、さまざまなドラマがお互いの計画や見込みや思いを超えて綴られていくであろうことが思い浮かびます。それが「わたしたちの間」です。そしてその間に「言葉は肉となって宿った」とヨハネは語りました。それが、イエスが救い主である理由であり、中身なのだというのです。

◆ 「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿った」この言葉が意味することは何か。例えばパウロはフィリピの信徒への手紙(2:6-7)の中でこう記しています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」 「神の身分」という表現は全能とか完全、あるいは欠けたところがなく整っていると表現し直すことができます。救い主としてのイエスは、自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になった、というのですから、整っている状況からそうではない状況へ踏み込んでいくということです。そしてそのような働きをあなたがたの間に届ける、それがあなたがたを豊かにし、生かすのだというのです。イエスはそのことをさまざまな人たちに出会い、語り、寄り添いながら、体験として伝えていきました。

◆ 「ちいさな風の会」というセルフサポートグループがあります。Webサイトでも活動が紹介されています。「ちいさな風の会」は、子どもを亡くした親の会で、お互い同士が同等な関係で支え合うことによって活動が続けられています。子どもを事故や病気で亡くした親たちが「わが子を亡くした悲しみ」という唯一の共通項を手がかりに集まり、それぞれの体験やその時その時の心の思い、苦しみや悲しみを語り合います。集会で表現されることは、怒り、苦しみ、恨み、喜び、優しさ、戸惑い、感謝といった、時には相矛盾するような感情のあれこれです。この会の世話人をしておられる若林一美さんは次のように語っています。「社会生活の中で、自分を裸にして見せるのは勇気がいります。しかし、この会のなかでは、怒りや無念さを声に出すことも、絶望と悲しみの淵からの微笑みや喜びもみな、その人の心のままに受けとめられています。そして、そこで大切なのは、その人が真実を語ったかどうかではなく、その人が話したいと思ったことを話せ、それがそのまま受けとめられたという実感をもてることです。そしてその積み重ねの中で、信頼関係が生まれているのです。」子どもを亡くした親たちは共有体験をもつ人の中で、自分を拓くことによって、自分の居場所を確認していきました。共有体験のもつ重みは、他と比較しようもないほど大きいのです。理屈ではなく、辛くて、苦しいとき、自分と同じ体験をしている人たちの顔を思い浮かべ、あの人もこの人も、このつらい時を耐えていると思えるだけで慰めになります。自分の言動が「自分だけのものではない」と感じられることも救いになります。悲しみは消えるものではありません。悲しみをもつ自分を見つめる見つめ方が変わることで生き方が変化し、自分や他人が存在することを認める仕方にも違いが出てくるのです。たとえ体験は同じでも、百人百様の悲しみあることに思い至った時、内なる悲しみは他者へのやさしさに変わっていくのです。

◆ 「わたしだけではない」と思えることは、人が生きる支えとなります。東京郊外に住む74歳の女性が95歳の母親を在宅で看取った時、彼女の意志を支えてくれたのは人の輪であったと述べています。母の看護のただ中にある時、彼女は睡眠時間もとれず、肉体的には極限状態に置かれていきました。疲れて眠い体を酷使する日々のなか、彼女がもっとも辛かったのは、まわりの人から置き去りにされてしまうのではないかという恐怖感でした。「1分の電話、1枚の葉書、一品の差し入れ」がどれほど嬉しかったか分からないと言います。他者からの働きかけは、時に善意によるものであっても病んだ人の心を傷つけることがあります。こちらの忙しさや、病人を抱える状態を心配してかかってきた電話も、長すぎるとかえって負担になってしまいます。大寒の入りの日に、看護に疲れた彼女のもとに、満開の桜の絵はがきが届きました。暗く沈んだその日の空模様と同じであった心の中が、一瞬にして澄み渡るような鮮やかな桜でした。その友人からはいつも週に2、3度、絵葉書が届きました。文章はいつも短いもので、返事を書かなければならないような負担を感じさせない気配りがありました。古い茶道具の絵葉書には「一服お茶を差し上げたくて」と書き添えてありました。実の母ではあっても、死に近づきつつある人と終日向かい合う生活は緊張を伴います。そこに肉体的苦痛が重なり、介護する側の身も心も弱くなり、傷つきやすくなっていきます。そういった時、ある一定の距離を保ちながら見守ってくれる友の<気配>を感じることで自分を保ち続けることが出来たと彼女は語っています。

◆ 「人間にとって一番大切な態度というのは何か。それは他人に向かって、あるいは隣人に向かって『あなたはどのようにお苦しいのですか』と問うことだ。それが人間にとってもっとも美しい、そしてもっとも人間らしいことである。そこから行動も始まる。」フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユの言葉です。これは、苦しみを一般化してしまわないということ、ひとまとめに束ねてしまわないということです。一般化された苦しみはひとりひとりの人間を埋没させてしまいます。そして本来、それに向き合うべき立場にある者の責任と自覚を拡散させ「わたしだけがしなくても」とか「わたしだけの責任ではない」という言い逃れの中に人を容易に押し流してしまいます。「あなたはどのようにお苦しいのですか」とある人に問いかけるということは、苦しみ一般ではなく、その人固有の苦しみを知ろうとする姿勢であり、その人が必要としていることに具体的に応える行動を起こす備えがあるということです。

◆ 神がわたしたちの間に宿る、それは神がわたしたちひとりひとりの思いに寄り添うということです。そして「あなたは一人ではない」ことを体験として味わえるように、ひとりひとりのいのちの声を受けとめ、分かち合えるような誰かとの出会いを生む。そのことのためにこそ働くことのだという神の決意を語っています。

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