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2019年12月22日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年12月22日(日)午前10時30分
降誕前第1主日 クリスマス礼拝
説 教:「神は闇に光を置く」
牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書1章1〜14節
招 詞:イザヤ書62章10~11節
交読詩編:98
讃美歌26,268,257,524,91(1番)
聖歌隊賛美:「Angels’Carol」
◎洗礼式・聖餐式を行います。

2019年12月15日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2019.12.15  マラキ書 3:19-24      「恐るべき主の日が来る前に」(髙田)               

◆「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように」。歴史の中で不思議な仕方で今の形に編集され、一つの書物として、一つの正典としてまとめられた旧約聖書はこの言葉で終わっている。プロテスタントのキリスト者が用いる聖書では、これにマタイによる福音書が続く。それはイエス・キリストの系図から始まり、旧約聖書の歴史物語に思いを広げさせながら、続けてキリスト誕生の物語を描き、マラキ書がその到来を預言した人がいよいよやってきたことを告げる。

◆ クリスマスの物語に直結する今日の言葉だが、しかし、落ち着いてそこに記されている言葉に耳を傾けてみれば、その背後にある厳しい状況が見えてくる。「見よ、その日が来る。炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる」。続けて「モーセの教えを思いおこせ」と、つまり律法を思いおこせと記されている。もしその律法に思いを向けず神に逆らうならば、「恐るべき主の日」にあなたたちは焼かれるであろうという。浮かび上がってくるのは、悪がはびこる状況である。そして、その状況は裁きを必要としているのだという。

◆ 先月、今日の聖書箇所について思いを巡らせながら、わたしは運転免許証の更新のため、運転免許試験場を訪れた。更新の手続きの後には講習があり、最初に案内されたのは、「ながら運転」と「あおり運転」の厳罰化のことであった。元来、運転者が安全で行儀のよい運転を心がけているならば生じないはずの問題であるのに、自由が間違った仕方で用いられ、それが度を過ぎて行ってひどい結果が生じたがために、法による禁止が必要となる。そしてその禁止は厳罰化という、言ってみれば脅しの形にもなる。マラキ書の問題もよく似たものであったから、悪や人間の愚かさにどう向き合ったらよいのかと考えさせられた。自由と規範、禁止と脅し、こうしたことをどう考えたらよいだろうか。

◆ 旧約聖書の歴史物語は、禁止から始まっている。神はその愛によって善悪の木の実を食べることを禁止する。ところが、その禁止は違反を唆し、違反は恐れを生み出し、死すべき定めが罰のような形で与えられる。その後、神は人にモーセを通じて律法を与えられた。人が共に良く生きるための規則であり規範だが、その規範には様々な罰則が定められており、その罰則の威嚇が人の自由を束縛する。もし律法を守らないならばどんなにひどいことが起こるのか、特に申命記がこれを語る。

◆ そして今やまた、そのモーセの律法が忘れられ、蔑ろにされているというのがマラキ書の状況であった。バビロン捕囚を乗り越えて、今や新たに神殿を建てることができた。そのために頑張って来た。しかし、神殿が建っても人々の生活は変わらず、厳しい状況は続く。大きな事業が成し遂げられればそれだけに、その時の興奮や熱狂が急激に冷めてしまって、どこか空しさが感じられるということもあるだろうか。そこでこの預言者の眼前にあったのは、人々が完全に神を侮っており、預言者の言葉にもまるで耳を傾けない──そういう状況であった。

◆ すべてを象徴的に表しているのが、2章17節の「裁きの神はどこにおられるのか」という人々の言葉である。悪人が栄えているではないか、神の律法を守らぬものが栄えているではないか、そうであれば神など存在するのか。神などいないのではないか。ならばすべてが許されているのではないか──この状況に向けて、預言者が語らざるを得なかったのが終わりの日の裁きであった。今、神は忍耐しておられるが、しかしそのうち裁きの日が来る。高慢な者、悪を行う者は焼かれてわらのようになる。だから、あなたがたは悔い改めて神を敬え、神の戒めに、掟に、律法に従え。そして正しく祭儀を行え。言ってみれば、脅しを突き付けることで人々を規範に立ち帰らそうとしているのである。

◆ このことはどう機能しただろうか。その状況が改善するのは、支配国であるペルシャの力を背景としたエズラやネヘミヤの政治的な改革によってであることが、聖書の記述から窺われる。神への尊敬の回復、信仰の回復によってではなかった。規範の崩壊した状況を改善するには強大な力、権力が必要になるということかもしれない。弱い人間はそのように力と脅しによってこそ、規範の内に生きる事ができるのかもしれない。しかし、本当にそのような道しかないのだろうか。このような問いにまったく別の答えを与えるのが、クリスマスの出来事ではないか。そう思われもする。

◆ 神の裁きを語るマラキ書がその最後に不意に書き記した小さな希望の言葉、すなわち、神ご自身が預言者エリヤを遣わし、「父の心を子に、子の心を父に向けさせる」、それは神ご自身が来て「破滅をもって、この地を撃つことがないように」である──この言葉がイエス・キリストの誕生を準備した。この言葉を響かせながら、ヨハネ福音書がクリスマスの意義を描き出す。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。

◆ その神の独り子、イエス・キリストは、自らが「道であり真理であり命である」、「真理はあなたがたを自由にする」と説かれた。その人は、足の萎えた人を癒やし、見えない人を見えるようにした。自らの足で立ち、自らの目で見る自由を与えられた。病や悪霊の支配、律法主義の軛から人々を解き放った。「ああしてはならない」「こうしてはならない」と禁止や威嚇を語るのではなく、こうした人々は幸いであるのだと説かれ、また、聞く者が自由に思いを広げて受け取ることのできるたとえ話によって、神の国と神の姿を教えられた。そしてその人は、禁止と威嚇と罰則を用いて人を縛り付ける権力に身を委ねられ、これに飲み込まれて、一人、十字架に殺されたのである。しかしそのことで人の弱さや罪を担いきって、これを贖われたのである。

◆ このイエス・キリストの姿にこそ真の自由がある。禁止と威嚇と罰則の世にあって、愛を説き自由を教え、そうした世界の全てを一人身に受けて担われた。そうであれば、イエスのようにわたし達もまた、一人で世界全体に対する責任を担いきることができるはずではないか。少なくとも、キリストを信じる信仰において、そして自らが神の子とされているとする信仰において、これに連なろうとすることはできるはずである。この世界全体に対して、自らが全ての責任を負っていると感じ、それができていないことに負い目を感じることはできるはずである。主の祈りにおいて、その負い目を告白することもまたできるはずである。

◆ そのように信仰において自覚される自由は、規範の崩壊の状況に面しても、その状況そのものに対して一人責任を負うことを要求するだろう。一人一人が自らの自由によって自らを律し、全体に対する責任を担いきろうとすることを要求するだろう。これは狭い門である。しかし、いつでもその道が可能であると信じること、弱く愚かなわたしたちが、その道を歩みきることのできる希望こそが、クリスマスに与えられているのだと信じたい。何より、そのような責任を担おうとして自らの手を打った新島襄に連なるこの同志社教会こそは、その道を行くものでありたい。

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