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2019年12月15日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年12月15日(日)午前10時30分
降誕前第2主日
説 教:「恐るべき主の日が来る前に」
牧師 髙田太
聖 書:マラキ書3章19〜24節
招 詞:詩編24編9~10節
交読詩編:19;8-15
讃美歌25,230,410,243,91(1番)
◎礼拝場所:静和館4階ホール
◎礼拝後、同志社大学グリークラブのコンサート情宣が行われます。

2019年12月8日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.12.8 列王記上22:6-17 「羊飼いを探せ」         望月修治    

◆ 私は同志社の学部時代、社会福祉を学びました。嶋田啓一郎先生のゼミに属していました。4回生になった時に、学部を卒業したら、神学研究科に進み、牧師の道を歩みたいと思っていますとお伝えしたら、「では望月君、あなたの将来に繋がる神学に関するテーマで卒業論文を書きなさい。私は神学部で学びましたから、神学のテーマでの論文指導をすることができます」とおしゃって下さいました。「終末論」をテーマに選び拙い論文を書きました。それを社会福祉学の卒業論文として認めていただきました。嶋田先生は当時、社会福祉学の第一人者と言われ、キリスト者でした。印象深い言葉を残されました。「キリスト者にとって愛するというのは、愛せないという、その自覚から始まる愛のことだと思います。それが世俗の社会福祉との決定的な違いだと思います。」愛せないという弱さの自覚から始まる愛、それがキリスト教信仰による社会福祉の原点であり、基盤なのですと嶋田先生は語られました。

◆ 愛せないという自覚から始めるしかない存在である人間、聖書はそのような人間という存在をしばしば羊に喩えて語ります。列王記上の22章にも羊に喩えられた人間が語られています。17節です。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。」羊と聞いてわたし達がイメージするのは群をなして草地を移動しながらおいしそうに草を食む姿です。羊は確かに群をなしています。しかし野獣が襲ってきた時、羊たちはお互いを守ろうとはしないで、散り散りに逃げ去ってしまうのです。いつも一緒にいる仲間が襲われていても関わろうとはせず逃げてしまうのです。そのような羊をそれでも守り、一つの群れにして世話をし、導くために働くのが羊飼いです。

◆ 17節はイスラエルの人々には、その羊飼いがいないのだと語っているのです。状況は次のようなことです。まず列王記という書物ですが、この書物には紀元前10世紀にイスラエルを統一し40年にわたってイスラエルを治め繁栄をもたらした王ダビデの最後から、紀元前6世紀のバビロン捕囚によって王国が滅びるに至るまでの400年余のイスラエルの歴史が記されています。ダビデそしてソロモンという二人の王のもとでイスラエルの繁栄の時代が続きます。しかしその後、王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂してしまいます。今日の箇所の舞台となっている時代は王国分裂後の紀元前9世紀です。当時ユダ王国を治めていた4代目の王ヨシャファトがイスラエル王国の王アハズのもとにやってきました。その時アハズから、ラモト・ギレアドという、もともとはイスラエルの領土であった土地がアラムという異国の支配下に置かれているので、その土地を協力して奪い返そうと持ちかけられます。二人は意気投合するのですが、不安は拭いされず、ヨシャファトは預言者に神の意志を確かめるようにとアハズ求めます。そこでアハズはミカヤという預言者に神の意志を聞くことを求めます。ミカヤは神に尋ね、神の声をそのままを王に告げるのですが、王はミカヤがどう伝えても「何度誓わせたら、お前は主の名よって真実だけをわたしに告げるようになるのか」と疑い続けます。そのような王に対して預言者ミカヤが語ったのが先ほどの言葉です。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。」 王は本来人々を守り導く羊飼いであるべきなのに、神への不信をあらわにして、その役割を担っていないというのです。だから人々は勝手に山に散ったままだというのです。

◆ さらに「彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ」と、王が本来果たさなければならない務め担うことを神は求めておられると告げます。しかしこの務めは「わたしは王だ。命令に従え」と言って果たしうるものではありません。羊は変わらないからです。仲間が襲われて危機に陥っても助けず逃げだしてしまう、それは変わらないのです。羊飼いは、その羊たちを訓練して、性根を鍛え直すというのではなく、羊をそのままに呼び集め、一つの群にまとめ、草地へと導き、守る務めを担うのです。聖書は人間をその羊に喩えます。愛せないという自覚から始めるしかないのが人間だからです。

◆ その人間の世に、神は、羊のために命を捨てると宣言し務めを果たす「よい羊飼い」(ヨハネ福音書10:11)を派遣しました。それがイエスです。クリスマスはそのイエスの誕生を神が起こされたかけがえのない出来事として迎え、命の中に刻み直す時です。愛せない、しかしそれでも人には応えうる道があるのか、神が派遣してくださった「よい羊飼い」の声にどう応えたらよいのか、そのことに思いをめぐらすべき時がアドベントでありクリスマスです。

◆ 私たちに出来ることは何か。イエスは宴会を開くということを例にあげて、指針を示しています。ルカによる福音書14章12節以下です。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。」 あえてお返しができない人を招き、もてなしなさいとイエスは勧めているのです。それは「よい羊飼い」としてのイエスの人生そのものであったと言えます。愛は与えっぱなし、貸しっぱなし。見返り、返済、一切無用であると説き、それでよいのだというのです。

◆ 借りたものは借りた相手に返すという「恩返し」は大切なことです。しかしイエスは違ったことを語っています。宴会にお返しができない人をあえて招待するという不思議な招待をするという話です。借りっぱなしで許されるものが一つあるというのです。「愛」です。これは借りっぱなし、もしくは貸しっぱなしで大丈夫だというのです。返済期限がないのです。なぜかといえば、聖書は返済義務があるものを「愛」とは呼ばないからです。借りたものは返す、それは取り引き、あるいはレンタルに過ぎないものです。人間の営みの多くがそうです。ただ、そのような形で物や親切をやり取りする行為を、聖書は「愛」のカテゴリーに入れないのです。

◆ しかしいくら何でも、もらいっぱなしで良いというわけにはいかない。やはりなにがしかのお返しをすべきではないのか、と思います。そうしなければ、礼儀知らず、恩知らずになってしまうとは思うからです。イエスも貰いっぱなしでいいと済ませているわけではありません。ただ、返し方が違うのです。恩を受けたら、その相手に返す、神から受けた愛、恩は神に返す、これはPay backいわゆる恩返しです。聖書が示すのはそれとは違った返し方です。恩返しとは異なる返し方を進めるのです。もらった相手、受けた相手ではなく、「別の人」に返すのです。自分が両親、学生時代の先生、クラブの先輩、あるいは友達から受けた恩や親切や支えや励ましを、後輩に、知らない人に、これから出会っていく別な人に恩をつないで渡していくのです。もらった恩を無関係な第三者にバトンを渡すように渡す。これを「恩送り」と言います。英語でPay forwardと言います。聖書は神が人間に注ぐ愛を「恩送りの愛」として提示していす。クリスマスの物語はそのことを私たちに告げるのです。

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