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2019年7月14日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.7.14 使徒言行録11:4-18 「幻の物語を聞いてほしい」     望月修治    

◆ イエスの死後、成立した初代教会ないしは原始キリスト教会の性格を一変させる重大な事件が起こりました。ユダヤを支配していたローマ帝国の百人隊の隊長コルネリウスがペトロから洗礼を受けたという出来事です。なぜコルネリウスの受洗が教会の歴史においてそれほど重要な事件、出来事であったのか。その理由を知るには、当時のユダヤの事情を知る必要があります。使徒言行録11章19節に次のように記されています。「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のため散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。」エルサレムからフェニキアまでおよそ180キロ、アンティオキアまでは500キロ、キプロスに至っては地中海の島ですから、エルサレムで吹き荒れていた迫害など及ばない場所です。それでも、散らされた人々は「ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった」というのです。それは、彼らにとって救いはイスラエルのための救いであり、イスラエルに属することなくして救いには与り得ない、そのためには割礼が必要なのだと考えていたのです。「ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった」のはそのためです。異邦人は割礼を受けてはいなかったからです。

◆ 律法を遵守する、それがユダヤ人の信仰生活、日常生活、全ての生活の基盤でした。ですから教会が成立し、キリストの福音に生きることを選び取った人たちであっても、律法は遵守しなければならないと考える立場の人たちが少なからずいました。初代教会の中に、ユダヤの伝統に固執する「割礼派」と、そうした伝統からの自由、解放こそが福音の教えだとする立場の人たちとの間で、深刻な対立と論争が生じていました。この対立と論争が、初代教会の大きな問題となっていました。信仰理解の基本をめぐる論争ですから、お互いに譲れません。使徒言行録の著者ルカは、この長い対立と論争の経緯を、対立がもはや過去のこととなった時代に、再解釈して語り直したのです。それは教会の人たちが立ち返って確認すべきことがこの出来事の中にあると考えたからです。

◆ コルネリウスがペトロから洗礼を受けることになった経緯は10章に記されています。彼について「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈って」いたと紹介されています。ある日の午後3時頃、天の使いがコルネリウスに現れて、「ヤッファに人を送って、ペトロを招くように」と告げました。コルネリウスはカイサリアからヤッファのペトロに使いを送りました。カイサリアはサマリア地方の地中海沿岸にあった港町です。そしてそこから海岸沿いに南に60キロほど下った所にヤッファがあります。コルネリウスだけではなく、ペトロもその翌日の昼の12時頃、不思議な幻を見ました。あらゆる獣や地を這うもの、鳥などが入れられた布が四隅をつるされて天から下り、それらを取って食べなさいという声が聞こえたというのです。ペトロが「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れたものは何一つ食べたことがありません」と反論すると、再び天から声が聞こえました。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」 

◆ ペトロが「今見た幻は一体何だろうか」と思案に暮れているところに、コルネリウスの使いが到着し、カイサリアまで来てほしいと伝えます。ペトロはヤッファを立ち、カイサリアに赴き、会ったこともないコルネリウスの家族と親類、親しい友人たちに、しかもユダヤの支配者であるローマ側の人間に会うために、なぜ自分がやってきたのかを語りました。「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、そんな人も清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない、とお示しになりました。」ですからお招きを受けて、すぐに来たのです。ペトロがそのように話をしていると、聞いていた人たちに聖霊が降ったとあります。その場に居合わせていた割礼を受けている信者は、目の前で起こった出来事に一様に驚きました。割礼を受けていない異邦人にも神の働きは届けられるだということへの驚きです。

◆ ペトロはここで、ヤッファで自分が見た幻の意味を知るのです。神が働きかけ、受け入れた人に洗礼を授けることをダメだという理由はない。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」いうのはこのことだったのだとペトロは納得し、コルネリウスたちにイエス・キリストの名によって洗礼を受けるように促しました。

◆ コルネリウスたちに洗礼を授けたことで、ペトロは、伝統に固執する「割礼派」グループからつき上げられました。彼らが問題にしたのは、異邦人が洗礼を受けたことではなく、ペトロが割礼を受けていない者と一緒に食事をしたことでした。ペトロを批判する者にとって、救いはあくまでユダヤ人に与えられたものでした。ですから、異邦人が神の民であるユダヤ人と共に食卓に着くためには、彼らも割礼を受けてユダヤ人にならなければならない、と主張し譲らないのです。

◆「割礼派」の突き上げに対して、ペトロは彼らと論争を一切展開しません。食事をしたか、しなかったかさえも言いません。異邦人と食事をすることの是非や、割礼について論ずるわけでもありません。そうではなくて「ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた」と4節にあります。ヤッファの町に滞在していた時に起こったことを、順序立てて語り始めます。ヤッファで見た幻の中で聞こえた「屠って食べなさい」という天からの声に促された時、自分がこれまで守ってきた古い規定にこだわって、異議を申し立て、従うことを拒みました。「主よ、とんでもないことです」と。律法に対するユダヤ人の忠誠の深さは、私たちの想像を超えています。律法の問題は、ユダヤ人でキリスト者になった人たちにとって、そう簡単に乗り越えることのできない実に重い課題でした。それに対して再び天からの声がしてペトロに告げました。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」しかし結局ペトロは天から吊り下げられてきた入れ物の中身を食べることはせず、全部が天に引き上げられてしまいました。解決がつかないままで幻は終わったのです。ペトロに大きな疑問と謎を残すことになりました。10章17節にこの時のペトロの心境が次のように記されています。「今見た幻はいった何だろうかと、一人思案に暮れて」いたと。この段階では、幻は謎のまま残り、ペトロは納得していません。

◆ 彼が見た幻は、単なる食物規定に関することではなく、実はもっと別の問題を問いかけていたのですが、そのことにペトロが気づくのは、コルネリウスと出会って、異邦人である彼に聖霊が降り、神が働かれるのを見た時です。ひとつの事実が、思案に暮れていたペトロに律法にこだわる生き方を超えさせ、そこから引き出しました。

◆ カイサリアでの出来事は初代教会にとって、重要な転換点となりました。それまで、イエス・キリストの福音は、ユダヤ人によってユダヤ人に伝えられていました。救いはイスラエルのためであり、異邦人に伝道することは考えられていませんでした。コルネリウスとその家族が洗礼を受けたことは、ユダヤ人以外の人たち、異邦人への伝道の本格的な始まりであり、神がユダヤ人と異邦人を区別しないで等しく救いにあずからせてくださることが明らかになった出来事です。そのことを、割礼を受けていたユダヤ人キリスト者が律法という伝統の枠を超えて、受けとめさせられた出来事です。

2019年7月28日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年7月28日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第8主日
説 教:「子どもたちよ、良心をいだけ!」
同志社女子大学准教授 山下智子先生
聖 書:エフェソの信徒への手紙5章1〜2節
招 詞:マタイによる福音書19章13〜14節
交読詩編:37;23-29
讃美歌:27,472,394,520,91(1番)
○礼拝場所:静和館4階ホール

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