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2019年7月7日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.7.7 使徒言行録8:26-38 「あの馬車と一緒に行け」       望月修治    

◆ キリスト教はイエスの死後に始まりました。その歩みを始めた共同体は初代教会と呼ばれます。そのころの教会には、すでに様々な人が加わり始めていました。それを大きく分けると、ヘブライ語を話す人とギリシア語を話す人ということになります。しかし両方ともユダヤ人です。ヘブライ語を話すユダヤ人は、いわば正統的ユダヤ人と見なされていました。ギリシア語を話すユダヤ人は、母国を出て世界各地に散らされていて、再び帰ってきたところで教会に加わった人のことです。ギリシア語を話すユダヤ人たちはユダヤ社会ではどちらかといえば低く見られていました。残念なことに、その人たちは教会の中でもだんだんと邪険に扱われるようになり、ゴタゴタが起こって行きました。それに対応するために使徒たちは、新たに七人の世話役を選びました。彼ら七人はいずれも不利益を被っていたギリシア語を話すユダヤ人であったと思われます。

◆ この7人の世話役の一人にステファノがいます。彼はユダヤの人々に向かって、イエスをよってたかって十字架につけて殺してしまったのはあなたたちだと語りました。このステファノの言葉を聞いた人々は怒りました。本当のことを言われたからです。ユダヤ人たちはステファノの言葉に歯ぎしりして、一斉に彼を襲いました。ステファノめがけて、次々と石が投げられました。この凄まじい光景は、私たちを戦慄させます。

◆ ステファノがユダヤ人たちのリンチを受けて殺されたことをきっかけに、教会に対する迫害は凄まじいものになりました。ユダヤ人たちはこの時とばかり、教会の壊滅を狙いました。多くの教会員がつかまり、また多くの人々は追い散らされました。今日の聖書箇所に出てくるフィリポもその一人です。彼が迫害を恐れてエルサレムを逃げ出し、サマリアに逃げ込んだのです。サマリアはユダヤと仲が悪く、ユダヤ人が足を踏み入れたがらない安全地帯でした。彼はさらにガザという町に通じる道に向かいます。ガザは地中海沿岸にあった町で、ユダヤの南の端です。エルサレムからどんどん遠ざかって行きます。サマリアで問われるままにキリストのことを語って目立ってしまったので、また逃げ出したのです。ガザに行かねばならない積極的な理由は見出せません。やはり逃げているのです。

◆ 彼にとって、ガザへ下る道は「寂しい道」であったと記されています。安全を求めて、誰にも会わずにすむはずの道を選んだのです。しかしエチオピアの旅人に出会ってしまいます。そのことが今日の箇所に記されています。彼はエチオピアの女王に仕える高官で女王の全財産を管理していたとありますから、女王の信頼厚い人物です。彼は宦官でした。それゆえの苦悩を抱えていたのではないかと思います。この高官はエルサレムに礼拝に来て、帰る途中であったとあります。このエチオピア人もエルサレムからの礼拝の帰りガザへの道をとったのです。この人は馬車に揺られながら本を読んでいました。それは旧約聖書のイザヤ書53章でした。救い主が現れるという第二イザヤの預言、紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代に活動した無名の預言者の言葉が記されている箇所です。ただしかしその救い主は、栄光に輝く王ではなく、苦しみを自ら負うしもべだと第二イザヤは述べています。このエチオピア人はその箇所を口に出して読んでいました。

◆ この人とフィリポは出会いました。ガザに下る寂しい道で、フィリポは逃げており、エチオピア人も苦悩を負って帰る途中であった。その二人が出会った。言うならば、この状況は全くのマイナスのイメージです。マイナスとマイナスが、寂しい道というマイナスの場所で出会いました。そのような出会いから何が生まれるというのでしょうか。

◆ お互いの存在にまず気づいたのはフィリポです。気づいてもしばらくは、こんな寂しい道になぜ人がいるのかぐらいにしか思わず、声をかけることもしないで、見つからないようにそっと後について歩いていたのでしょう。しかし、馬車に揺られている人が本を読んでいるのが聞こえてきました。エチオピア人もまさかこんな寂しい道に別の旅人がいるとは思わず、大きな声で読んでいたのだろうと思います。フィリポはユダヤ人ですから、馬車から聞こえきた本の内容が聖書であることは分かりました。しかもイザヤ書の言葉です。特に、苦しみを自らも負う者が民を救うというイザヤ書53章の一節でした。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼がうち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。・・・・苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」この箇所をエチオピア人は読んでいました。イザヤ書に記された苦難の僕の姿に彼は自らの心の苦悩を重ねていたのでしょうか。

◆ イザヤ書の言葉にフィリポの心が動きます。関わりを持たずに行き過ごせたはずのエチオピア人に話しかけます。人間の人生の転機は時に、このような何気ないことがきっかけとなって起こります。
逃亡者のフィリポ、そして心に苦悩を負ったエチオピア人の高官、いわばマイナスイメージの二人の出会いを、もう一人のマイナスイメージの苦しみを負う僕、イザヤ書の苦難の僕の物語が導いたと、使徒言行録の著者ルカは言いたかったのではないでしょうか。問われるままにフィリポは聖書のことを語り、イエスについて福音を告げ知らせ、そしてフィリポはこのエチオピア人に洗礼を授けたというのです。その場面をルカはこう記しています。「道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。『ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。』そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。」

◆ この出来事は二人にとって生涯忘れ得ぬ出会いとなったはずです。使徒言行録に記された初代教会の人々の姿は、私たちの今を照らし出します。フィリポは迫害の嵐が吹き荒れるエルサレムから逃げ出しました。でも逃亡者という点では教会形成の中核になったイエスの直弟子たちも例外ではありません。彼らは、いずれもイエスが捕らえられ十字架に処刑されるとき、逃げ去りイエスを見捨てたからです。迫害の危機にさらされて怖くて逃亡したのです。人間のこの弱さ、醜さ、情けなさから教会は始まりました。使徒言行録は弟子たちの働きによってイエスの福音が世界に伝えられていったことの記録ではありますが、それは彼らが汗と血を流して頑張り、信仰に燃え、努力と忍耐を重ねてイエス・キリストのことを伝えたのだという人間の側の手柄話ではなく、人間の努力や頑張りや力量を超えた不思議な力が彼らを押し出すようにして、用い働かせたことの記録です。

◆ 教会は痛みと弱さと苦悩を負う者たちの集いです。逃げる者たちの集いです。しかしそこに同じように苦しみを負うキリストが立っています。そして人々に出会いを促し、何かを生じさせ、キリストはまた逃れ歩む人に出会うために、寂しい道に向かって行かれるのだと、今日の物語は語りかけてくるのです。

2019年7月21日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年7月21日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第7主日
説 教:「騒ぐな、まだ生きている」
牧師 望月修治
聖 書:使徒言行録20章7〜12節
招 詞:ルカによる福音書7章15〜17節
交読詩編:35;1-10
讃美歌:26,15,471,479,91(1番)

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