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2019年6月9日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.6.9ペンテコステ  使徒言行録2:1-11「いのちは故郷の言葉に乗って」 望月修治 

◆ ペンテコステはイースターから数えて50日目にやってきます、しかしクリスマスやイースターのように降誕前とか復活前第○主日という準備期間、予告期間がありません。ペンテコステだけは「復活節第7主日」の次に突然やってくるのです。「聖霊降臨前第○主日」というぐあいにカウントダウンの暦がありませんから、復活節だと思っていたら突然今日はペンテコステということになります。突然やってくる、それはペンテコステにふさわしい気がします。「今日はペンテコステか」とはっとする、その感覚は実は大事です。使徒言行録2章1節以下にはペンテコステの出来事が記されていますが、2節に「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」とあります。聖霊は「突然」やってくると使徒言行録には記されていますが、教会歴におけるペンテコステの始まりはそのことを体験させるかのように突然始まるのです。突然ということは、人間の側で予知したり予測したりできないものということであり、人間の知識や知恵の及ばないものであるということです。聖霊とは神の力、神の働きのことですが、この神の力は、人間が予知したり、予測したりすることの出来ない「見えざるもの」であることをペンテコステの出来事は伝えてくれます。

◆ 聖霊は神の力ですから、聖霊そのものを記述することはできません。力とか風とか息について表現するとすれば、木の葉が激しくゆれるとか、煙がたなびいているというように、それらのものが働いた結果について書き表せるだけであって、力や風それ自体を記述することはありません。聖霊も同じです。ほらこれが聖霊というものですよと写し取ることは出来ません。例えば4節にあるように「一同は・・ほかの国々の言葉で話し出した」というように、聖霊が働いた結果こうなった、こういう事が起こったということしか言えないのです。聖書にはその結果としての出来事、こういう事があったけれどもそれは聖霊が働いたからだと見なすことが出来ますよという形でのいろんな出来事が物語られています。ただそれらが聖霊の働きの全てを示しているということではありません。あくまで例えばこういうことも聖霊の働きの結果ですよ、ということです。

◆ 使徒言行録2章には神の力としての聖霊の働きを結果として示す二つのことが記されています。まずイエスの弟子たちが「ほかの国々の言葉で、神の偉大な業を語り出した」という出来事です。時間を少し遡りますが、イエスが十字架に架けられ処刑されて葬られた後、弟子たちは飼い主を失った羊のようになり、1:13にあるようにエルサレムのある家の上の部屋、つまり二階の部屋に暮らしていました。おそらく、イエスを迫害し、死に追いやった権力者たちが自分たちをも見つけだし捕らえにやってくるだろうとおびえながら声を潜めて寄り合っていたのです。しかし五旬節の日、過越の祭りの子羊を屠る日から数えて50日目つまりペンテコステの日、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、そして「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。舌と訳されているグローサというギリシア語は、4節にも出てきます。「国々の言葉」と訳されている「言葉」がグローサです。ですから「炎のような舌が分かれ分かれに」とあるのは「炎のような言葉が分かれ分かれに、一人一人の上にとどまった」ということです。「すると、一同は聖霊に満たされ霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」のです。ガリラヤの漁師であった弟子たちが9-10節に記されているようにいろいろな地方からやって来ていた人たちに分かる言葉で「神の偉大な業」について語り始めたのです。

◆ 使徒言行録はそこに集まっていた人たちが「どうして私たちは、ガリラヤ人である彼らから、自分たちの生まれたそれぞれの故郷の言葉を聞くのだろうか」と言って驚き怪しんだと記しています。「パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方に住む者もいる。またローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいる」とあります。この多様な地方の言葉を故郷の言葉とする人たちがみな「自分の生まれ故郷の言葉を聞いた」という実感を抱いたという、この出来事が意味しているのは、言葉の違いを超えて福音が伝えられたということです。人と人とを分断しているものが取り払われた、ということです。

◆ この場面は旧約聖書の創世記に記されているバベルの塔の物語を思い出させます。聖書によれば、その頃「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」。それで人々は互いに「れんがを作り、それを焼こう」と話し合うことができたのだという。人々は協議の末に、焼いたれんがを積み上げ、そしてこう言ったのです。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう」。それはれんがを下から上へと積み上げる行為に象徴されているように、人間が持つ力を「天まで届く」仕方で示そうという試みでした。それがバベルの人々が協議の末に出した結論でした。この時バベルの人々を支配していたのは「下から上へ向かおうとする人間の宗教性です。その時人は神になろうとする。いや神のようになれると思う共同体が出来上がるのです。しかしこの宗教性は神の前に拒否されました。人間は「神の言葉に聞く」「神の言葉に従う」ということできなかったということをこの物語は描きます。人は受けからの言葉を聞かなくなり、水平次元に目を向けて、お互いに「れんがを作り、それを焼こう」と話し合うのです。そのため神は人々の言葉を混乱させ、「互いの言葉が聞き分けられぬように」したというのです。その人々が、上からの力によって、今や「互いの言葉を聞き分けられるようになった」それがペンテコステの出来事の意味なのです。そこに聖霊が働いたことの一つの結果を見いだすことが出来るというのです。聖霊の働きは人と人とを結びつけるのです。

◆ この時まで弟子たちは家の中に閉じこもり仲間だけでつながりを持ってきましたけれども、五旬祭の日に聖霊が降ったと表現される出来事によって弟子たちに起こったのは、彼らが外の人たちと関わるという生き方です。その時言葉が通じ、その日に3000人もの仲間が出来た(2:41)というのです。弟子たちの中に起こった出来事を大きな転換点として、教会が生まれていきました。教会では自分たちにしか通用しない教会用語が使われることが少なくありません。言葉は同じ日本語でも、教会の中でしか通用しない言葉は、お互いが理解し得ない異国の言葉と同じかも知れません。しかしもっと問題なのは、わたしたちが、仲間同士で慰め合っているだけで、外に向かって関わりをもとうとしないことではないでしょうか。教会を通して神の意志が示されるのだと決めつけて、教会が一方的に教えるという姿勢になってはいないでしょうか。相手かまわず自分の言葉だけを放出しても思いは通じ合いません。いろんな言葉を話すけれども、自分の故郷の言葉を聞くという響き合いは起こりようがありません。「二人または三人が共にいるところに、わたしもまたいる」と語ったイエスの言葉を思い起こします。神の働きは交わりを生み出すべく注がれてくる力なのです。

2019年6月23日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年6月23日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第3主日
説 教:「神の物語が心の戸を開く」
牧師 望月修治
聖 書:使徒言行録2章37〜42節
招 詞:サムエル記下7章8〜9節
交読詩編:133
讃美歌:28,18,392,402,91(1番)

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