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2019年6月2日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.6.2マタイによる福音書28:16-20 「11人は旅立つ」    望月修治     

◆ 一つのまとまった文学作品や文章を書くときに、最初の書き出しと最後の締めくくりの言葉に気を遣うのはどの作者にも共通したことであろうと思います。今日読んでいます箇所はマタイによる福音書の締めくくりの部分です。福音書を書いたマタイが一番に言いたかったことが記されているに違いありません。それは「インマヌエル」(神は我々とともにおられる)です。このことこそ福音の全てであり、神の祝福のしるしに他ならなかったのです。

◆ ではなぜマタイは「インマヌエル」にこだわったのでしょうか。その理由はおそらくマタイが属していた教会が置かれた時代状況にあります。紀元80年代にマタイが属していた教会は、迫害を受けて「インマヌエル・神は我々と共におられる」と告白することが困難となり、木の葉のように揺れ動かざるをえなかった現実があったのです。そうであるからこそ、すでに存在していたマルコによる福音書だけでは足りず、新たに福音書を書き記す必要がマタイにはあったのです。「インマヌエル」神は我々と共にいて下さるのだと懸命に伝えようとする意図のもとに新たな福音書を書き記したのです。

◆ ただしマタイは「神は我々と共にいてくださる」ということを直球勝負のように人々の中に投げ込んだわけではありません。迫害を受けている人たちに、イエスの十字架に直面した後の弟子たちはどうであったのかを語り、動揺する人たちの思いに寄り添いながらこの言葉を届けようとしています。弟子たちがイエスが十字架につけられた後、何をしたかを詳しく書いているわけではないのですが、28章に弟子たちの行動を推測することができる言葉があります。7節です。「見よ、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。」この言葉は10節で繰り返されます。ガリラヤ、それは弟子たちの故郷です。イエスが十字架につけられた。その後彼らは故郷に帰るのです。イエスが弟子たちと一緒に行動したとき、ほとんどの時をガリラヤで過ごしました。その故郷ガリラヤに彼らは帰りました。しかし、そこでもう1度やり直そうというのではありませんでした。何をしていいのか分からなかったのです。

◆ 「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」紀元前6世紀に生きた無名の預言者、今日私たちが「第二イザヤ」と呼ぶ預言者の言葉です。神の道、神の思いは人の道、人の思いを高く超えている、言葉で言われればその通りですと人は語ります。しかし言葉の上での納得と心の中での納得は別です。この距離感をマタイはその福音書の最後にも書き記します。16-17節です。「さて、11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」「疑う」と訳されているのはディスタゾーという言葉で、ディス(二重の)とスタシス(立つこと)とが組み合わされた言葉です。「取るべき道が分からず、心が二つに分かれた状態」を指しています。11人の弟子たちはイエスの指示に従ったのですから、イエスへの憧れ、信頼を失ってはいません。しかし復活したイエスに出会っても、それを信じることができなかったというのです。彼らの心も二つに分かれていたのです。

◆ 「信仰とは99%の疑いと1%の希望である」と遠藤周作は語りました。イエスが「共にいる」と語りかけたのはこのような11人の弟子たちです。「11」とは欠けを含んだ数字です。イエスを裏切ったイスカリオテのユダの存在を強烈に意識させる数字です。弟子たちの中に顕わになった欠けを埋めないままの弟子たちの群れをマタイは描きます。その人たちにイエスは宣教の働きを託します。破れを持った者たちがなぜ神の宣教の働きを担えるのか、それは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」からだとマタイは言うのです。破れを自覚したときにこそ、傍らにいる神を人は見いだすのです。欠けを抱きながら、なお用いられている、必要とされていくことのありがたさを身にしみて知るのです。そのような知り方をするとき、人の生き方は変わります。

◆ 今日の箇所のその締めくくりで、イエスが欠けを抱いた11人の弟子たちに「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」という務めを託しています。伝道あるいは宣教と呼ばれる働きを、イエスは欠けをもった弟子たちに託したということです。伝道や宣教というときに、私たちがイメージするのは、自分たちは伝える側、与える側、差し出す側にいるということです。そしてまだイエスを知らない人たちに、自分が与っている恵みを、喜びを、福音を伝えてあげるのだという構図の中で、伝道や宣教を行うということです。

◆ しかしそれは違うのだということを、マタイ福音書の最後の記事は伝えているのではないか。欠けをもっている人たちに、イエスは伝道・宣教の働きを託すのです。欠けをもっているということは、それを埋めてもらわなければならないことを知っているということです。あるいはそうしなければ歩めないことを知っているということです。宣教、伝道というのは、イエスの福音を伝えようとして出会って行く人たちから、私たちが励まされたり、慰められたり、生かされたりする、その関係性の中にこそ、イエスの「すべての民をわたしの弟子にしなさい」という言葉は聞くべきものだと思っています。だからイエスは欠けをもった11人の弟子たちにこの務めを託したのだと思うのです。

◆ 星野富弘さんがこんな詩を書いておられます。
「何のために 生きているのだろう 何を喜びとしたら よいのだろう これから どうなるのだろう その時 私の横に あなたが ひと枝の花を置いてくれた 力をぬいて 重みのまま咲いている 美しい花だった」 この詩の前半は、とても暗く絶望的な思いに満ちています。長引く療養の日々の中で、生きることに疑問をもち、将来の生活に不安を感じ、焦りや絶望に陥ることもあったと思います。ところが後半になると、「一枝の花が、美しい」と謳われ、明るさが増し、あるがままに生きることの喜びが歌われます。よく読むとその明るさは「一枝の花」ではなくて、本当は一枝の花を私の横に置いてくれた「あなた」だったことがわかります。この詩が書かれたのは1981年とあります。星野富弘さんが結婚された年です。

◆ イエスが十字架で死んだ後、弟子たちは故郷のガリラヤに帰って行きました。しかしがしガリラヤでの日々に希望や喜びはありません。ガリラヤに帰った弟子たちには、生きることへと励ましてくれる「あなた」がいないからです。いやその「あなた」を彼らは見失っていたのです。「何のために生きているのだろう。何を喜びとしたらよいのだろう。これからどうなるのだろう。」生きることに疑問をもち、将来の生活に不安を抱く弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とイエスは語りました。「わたしと共に生きよう」と語られるのです。この「あなたが」が横にいてくださる、そこから彼ら11人は旅立つのです。弟子たちの新しい生が始まったのです。この「あなた」はわたしたちの日々の旅立ちにも寄り添い続けておられます。

2019年6月16日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年6月16日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第2主日 こどもの日合同礼拝
説 教:「持ち寄りの食事会へどうぞ」
牧師 望月修治
聖 書:使徒言行録2章43〜47節
招 詞:詩編8章4〜5節
讃美歌:27,91(1番)
こども讃美歌:19,106,94,112,24-2

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