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2019年5月12日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.5.12 ヨハネによる福音書6:34-40 「そのパンは心を動かす」  望月修治   

◆ 人類の一部が飽食の時代に入ったのは第二次世界大戦後のことです。現在でもアジア、アフリカでは深刻な飢餓の問題があります。20世紀初頭までは、人類は飢餓に常に悩まされていました。イエスの時代には、ユダヤ人たちはローマ帝国によって収奪されていましたので、貧困層の人々にとって食料確保の問題は深刻でした。そのため、イエスの発言にも食べ物の話題がよく出てきます。
人はパンだけで生きるのではないことを、旧約聖書は教えています。イエスも荒れ野でひどい空腹に襲われて悪魔の誘惑を感じたとき、この言葉を口にして危機を乗り越えたと福音書の記事は伝えています。しかし、イエスとほぼ同時代を生きたユダヤ教の学者は、神の教えを守ることなくただ食べるだけという生活は空しいけれど、かと言って食べるものがなければ神の教えを守ることも困難である、と語りました。実際、人が生きるにも神の教えを守るにも、パンは大事です。旧約聖書の箴言に「あなたを憎む者が飢えていたならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。」(25:21)とあります。パンを食べることが持つ意味を語ってくれています。

◆ 今日の箇所はそのパンがテーマです。イエスの時代には、ローマの支配下にあって、貧しい人が多く、食べ物を確保することは、人々にとって毎日苦労しなければなりませんでした。ヨハネ福音書6章の物語の背景には、当時のそのような状況があります。6章のはじめには「五千人に食べ物を与える」という出来事が記されています。男だけで五千人の人々がいた、という状況設定でこの出来事は語られています。この人たちに対して、イエスが少年のもっていた大麦のパン五つと魚二匹を人々に配ると、皆が欲しい分だけ食べることができて満腹し、しかも残ったパン屑を集めると12の籠いっぱいになったというのです。この不思議な出来事が起こったあと、夕方になってイエスは弟子たちと一緒にガリラヤ湖を舟で横切り、対岸のカファルナウムの町へと移動しました。翌日イエスの不在に気づいた人々は、その後を追ってカファルナウムに向かったというのです。彼らはイエスによって配られたパンと魚によって満腹感を味わいました。それは日々の食べ物を確保することが難しい当時の日常の中で、絶えて久しかった満腹感だったのだと思います。しかし人の腹は満腹してもやがて空いてきます。忘れていた満腹感を味わい刺激された人々は、さらに食べ物への期待を高めて、イエスの後を追ったのです。イエスを捜し求め、その後を追うという熱心さは、イエスの言葉や教えをさらに求めたからというのではなく、食べ物がまた手に入るかもしれないからという期待によるものでした。イエスの言葉がそれを裏付けています。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」「しるし」(セーメイオン)は「目印・合図・不思議な出来事・奇跡」を表します。人々は神の働きを見て心動かされイエスの後を追ったのではなく、パンが食べられた満腹したからです。「満腹する」と訳されている言葉は、元来は動物がエサを十分にとって満足している様子を表しています。ですから、お腹が満ちる、そのことだけを追い求めて、それさえ手にできればそれでいいと思ってしまうことを表している言葉です。

◆ 今日の箇所には、このようにしてイエスの後を追って来た人々とイエスとの間で交わされたやり取りが記されています。福音書記者のヨハネは、イエスの言葉を聞いた者が、その言葉を誤解することによって、その場面における出来事やイエスが語った言葉の意味、あるいは主題を明らかにするという手法をよく用います。6章でも、27節で「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」とイエスが語ったことを、「いつまでもなくならない不思議なパン」だと人々は誤解して「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と求めています。これに対してイエスは「わたしが命のパンである」と告げて、「永遠の命に至る食べ物」「天から降って来て、世に命を与えるパン」とは、家庭で焼くパンではなく、心の糧となるパンのことであること。そして「神のパン」とは、イエスのことであると語ったというのが今日の箇所に記されている内容です。

◆ 人が生きていくためには二つの食べ物が必要です。ひとつは肉体を養い、支え、育てる食べ物、毎日の食事です。そしてもうひとつは心を養い、支え、育てる糧、心が食べる食べ物です。「命のパン」とは「永遠の命に至る食べ物」のことであり、それこそわたしが「あなたがたに与える食べ物である」とイエスは語ります。人間は「永遠」を長さでとらえそれを手に入れるべく不老不死の手だてを探しました。イエスは同じ「永遠」という言葉を用いながら、命の質を語りました。長さではなく、どのようなつながりの中に命を位置づけるか、それこそが大切なのだと語るのです。人は生まれた時から、いやひとつの命として母の胎に宿った時から、いろいろな形での出会いとつながりの中に置かれて生きていきます。そしてそのひとつ一つの出会いを通してさまざまなことを学び、養われてきました。優しさ、いたわり、慰め、励まし、和らぎ、そして温もり・・・目には見えませんが、しかし私たちが生きていく上で欠くことのできないもの、しかもお金では買えないさまざまな心の用い方、命の使い方を、私たちは多くの出会いの中で与えられ、学び、養われてきました。神の働きは、このような出会いを作り出すこととして示されるのです。人が人と出会ってつながりを作ると、そのつながりをとおして神はその働きを啓示する。私たちに、どのような神であるのかを示して下さる。そのようにして与えられる神の働きをイエスは「命のパン」という表現で語りました.これが命のパンだというものが誰が見ても分かるようにそこにあるというのではありません。その時そのときの状況の中で届けられるもの、相手を生かしたい、そういう願いの中で紡ぎ出され、届けられていく言葉や仕草、あるいはひとつの歌が「命のパン」となるのです。

◆「聖書に生きた人はみな聖書を読み捨てたのではなく、食べかみ砕いて生きた。聖書は読むものではない。食べるものである。」と語ったのは旧約学者の左近淑さんです。聖書の言葉を食べると表現される体験とは、生きることへの視点に転換が起こることです。これが失われてしまったらもう絶望するしかないという状況に、違った視点をたてることが出来たら、違った受けとめ方が出来て、別の生き方ができると気づくことができたら、人はそこからまた歩み出せるのです。「救い」とはそのような視点の転換が与えられることです。

◆ 人間の暮らしはいつも平穏だというのではありません。辛いこと、苦しいことが訪れてきます。聖書に生きる生活とは、決して現実から逃げることではなく、そのただ中を深く生きることです。それは私たちが生きている現実のただ中で働き続けておられる神に出会う体験と重なります。

2019年5月26日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年5月26日(日)午前10時30分
復活節第6主日
説 教:「あなたの言葉を聞きたいのです」
牧師 望月修治
聖 書:ルカによる福音書7章1〜10節
招 詞:テサロニケの信徒への手紙Ⅱ3章3〜5節
交読詩編:34;1-11
讃美歌:24,209,442,408,91(1番)

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