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2019年5月5日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.5.5 ルカによる福音書24:36-49「焼き魚は美味しかったですか」  望月修治  

◆ 復活したイエスは韋駄天(いだてん)走りのごとく動き回っています。エルサレムからエマオへ行って、二人の弟子と食事をすると姿を消し、またその日のうちに再びエルサレムに戻って11人の弟子たちとその仲間のいるところに姿を現して、十字架に釘打たれた後の穴がまだ空いている手と足を見せ、焼き魚まで食べてみせる、という具合に、まことに忙しく動き回っています。エルサレムとエマオの間の距離は60スタディオン、約11キロです。少し早めに歩いて2時間、小走りなら1時間半というところでしょうか。食事をした後、イエスの姿は見えなくなったけれど、彼ら二人は急いでエルサレムに引っ返します。夜道をエルサレムへと引き返す彼らの思いは高ぶっていたはずです。

◆ エルサレムに残っていた11人の弟子たちや仲間たちも「本当に主は復活された」と話し合っていました。そこへ駆け戻ってきた二人も加わって、エマオでの出来事を語ります。盛り上がっていました。しかしその言葉に根はまだありません。イエスの遺体が見つからない墓を見てうろたえ途方にくれる、「復活した」などたわ言だと思う、恐ろしくて震え上がり正気を失ってしまう、この日の朝、彼らが見せた揺らぎの渦はまだ収まっていません。復活したイエスが姿を現すと、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」とルカは記します。戸惑いの渦の中に彼らはまだいるのです。
そんな弟子たちにイエスは言います。「なぜ取り乱しているのか。どうして心に疑いを抱くのか。」「疑い」とは原語でディアロギスモですが、この言葉には理屈、論議という意味もあります。弟子たちは、理屈で考え、自分で確かめようとしたということをこの「疑い」という言葉は示します。心が鈍くて受けとめきれない、その現実をなお自らの理解力や判断力で踏み越えようとしていたということではないのでしょうか。

◆ しかし復活という神が起こされた出来事は、もっともっと深いところから湧き上がってくる泉でした。人が簡単に分かりましたということなどできない深さ、奥行きをこの神の出来事はもっています。たとえどんなに人生の体験を積み上げていったとしても、それでもなお新しく、みずみずしくその時その時の人生の街角や曲がり角にこの出来事は新しい出会いとして私たちを待っているのです。辛い思いを味わって一つの角を曲がった私たちを、寂しさに耐え難く立ち止まった私たちを、悲しい別れに涙を流しながら角を曲がる私たちを、包み込むように抱きしめるのです。「イエスはよみがえられたのだ」そうそっと語りながら私たちを迎え続けるのです。私たちが迎えるのではなく、迎え入れられるのです。神が私たちを迎えて下さるのです。

◆ イエスはそのことを味わってほしいのです。なんとか伝えたいのです。ですからイエスは韋駄天の如くエマオからエルサレムへと道を急ぎ、そして動き回るのです。復活した姿を見せて「あなたがたに平和があるように」と言葉をかけているのに、恐れおののき、亡霊を見ていると震え上がる弟子たちに、だったらこれではどうかと釘打たれた傷跡の残る手と足を見せるのです。亡霊には肉も骨もないけれど、わたしにはほらちゃんとあるだろうというのです。それでもまだ信じきれない彼らに、今度は焼いた魚を食べて見せるのです。弟子たちの食事のために用意された焼き魚をムシャムシャと食べるのです。この場面で上品に食べるイエスを想像できません。焼き魚を両手にとってかぶりつき、口の周りに焦げた皮や身がくっ付いている、そんなイエスを想像します。そんなに勢い込んで食べて、その焼き魚は美味しかったですか、と尋ねてみたいと私はこの箇所を読んで思うのです。

◆ 復活という途方もない神の働き、神が起こされた出来事を、「分かる形」「見える形」にして伝えたい、伝えるから受けとめてほしい、そういうイエスの思いが溢れ出て、弟子たちにだけではなく、私たちのところにも物語の中から流れ出てくるような場面です。「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とルカは書いています。そんなに硬い表現でなくてもよいのにと思います。「心の目を開く」というのは食べるということです。遠い昔、預言者のエレミヤが「神の言葉をむさぼり食べました」と語った体験の仕方、味わい方をすることだと思います。人生の節目節目で時は満ち、新たな気づきが訪れ、ひとつの納得が命の中に広がっていく、それが神の言葉を食べるということと重なっていくのです。信仰というのは生きることへの納得をもたらしてくださる神の働きにアーメンということだと思っています。その通りですと告白することだと思っています。

◆ ヨハネ福音書の21章に、復活したイエスが弟子のペトロに「あなたはわたしを愛しているか」と三度尋ねたという物語が記されています。最初の2回は徹底した愛し方を示すアガペーという言葉で、3度目は破れを含む愛を示すフィーリアという言葉で、そういう愛でいいから「わたしを愛するか」と尋ねたという印象深い物語でヨハネは復活を語っています。ルカはここで、ヨハネのように愛について語ってはいません。愛という言葉は語っていません。けれども、魚一切れを弟子たちの前で一生懸命食べるイエスの姿に、ルカは愛を語るのです。弟子たちへの想いの深さを語るのです。そして私たちは、このルカの物語を通して、私たち一人ひとりへの、このわたしへの神の思いの深さに出会い、味わうのです。

◆ 歌手のさだまさしさんが書かれた「もう愛の歌なんて詠えない」というエッセー集の中に、さださんが作詞作曲された曲の中から11曲の歌詞とその歌を巡って新たに書き下ろされたライナーノート(解説文)も掲載されています。「秋桜(コスモス)」という曲のライナーノートがありました。
こう記されています。電話で山口百恵さんに「秋桜」の歌詞について「ピンとこないでしょう?」と聞くと、彼女はきっぱり「はい」と答えた。まだ18歳の山口百恵さんに「結婚前夜の母娘」というテーマは理解できるはずもないだろう、と思った。言い訳するようにこう付け加えた。「何故僕がこんなテーマを選んだのか、あなたに解って貰える日が早く来るといいね」と。最後のコンサートの日、彼女からメッセージが届いていた。「さださんがこの歌を作ってくださったお気持ちがやっと解る日が参りました。本当に、本当に、ありがとうございました。山口百恵」

◆「何故僕がこんなテーマを選んだのか、あなたに解って貰える日が早く来るといいね」
「さださんがこの歌を作ってくださったお気持ちがやっと解る日が参りました」
深い思いのこもった言葉だと思いました。解って貰える日がくるまでとさださんは言い、それ以上の解説はしない。解説しても時が満ちていなければ伝わらないものがあるからです。「この歌を作ってくださったお気持ちがやっと解る日が参りました」それは結婚する時が現実になったからということだけではおそらくないと思いました。もう二度とこの舞台には立つことがない、その時の区切りに立とうとした時、訪れた気づきであり納得であったのだと思いました。

◆ イエスは、「復活など訳がわからない」と言う私たちに「あなたに解って貰える日が早く来るといいね」と語りかけながら、「やっと解る日が参りました」と納得する時がその人に訪れるのを待つ人です。イエスはそのような優しくて温かな「救い主」なのです。

2019年5月19日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年5月19日(日)午前10時30分
復活節第5主日
説 教:「トマスの疑い」
平松譲二先生
聖 書:ヨハネによる福音書20章24〜29節
招 詞:ガラテヤの信徒への手紙3章26〜28節
交読詩編:119;9-16
讃美歌:24,6,545,197,91(1番)

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