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2019年3月10日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.3.10 ルカによる福音書4:1-13 「拒まれた取り引き」   望月修治     

◆ イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けた後、荒野で悪魔から誘惑を受けたという物語です。この物語はマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に記されています。マタイとルカは最初に書かれたマルコによる福音書を基礎資料として用いていますから、マルコの物語がいわばオリジナルということになります。マルコ福音書には次にように記されています。「それから、〝霊〟はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使が仕えていた」以上です。マタイ福音書やルカ福音書の記述に比べて大変簡略です。マタイとルカはマルコ福音書の記事に肉付けしているのですが、その肉付けがむしろ事柄の重大性をぼかしてしまっているのではないか、読み比べてみてそう思いました。

◆ 物語の舞台は荒れ野です。荒れ野は城壁の外という場所です。当時の町は外敵を防ぐために城壁で囲まれていました。荒れ野はその外ですから、町の人が住む場所ではありません。国家の保護も保証もない所であり、一人の人間としての扱いを受けぬ場所です。人間が人間として扱われないという大きな悲惨が渦巻く場所、それが荒れ野です。そうであるが故に、罪人すなわち神の救いから洩れたと見なされた者が追いやられた場所です。イエスもその荒れ野に追いやられ、そして「引き回され」たと記されています。荒れ野でイエスは悪魔に出会うのですが、引き回したのは悪魔ではありません。「〝霊〟によって引き回された」とあります。すなわち神がイエスを荒れ野に向かわせ、引き回し、悪魔と対峙させられたというのです。それが福音書に書かれている内容です。

◆ 霊がイエスを荒れ野の中で引き回したのは40日間にも及びます。その間、イエスは悪魔からの誘惑を受け続け、しかも何も食べなかったとあります。40日の期間が過ぎた時、空腹も限界に達していたはずです。そのタイミングを狙いすまして悪魔は最後のダメ押しを仕掛けました。三つの誘惑をささやくのです。第一は、神の子なら空腹を満たすためにそこらに転がっている石をパンになるように命じたらどうかということです。第二は、世界のすべての国々の権力と繁栄を手にしたいだろう、だったら私を拝めということ、そして第三には、エルサレムの神殿の屋根の端に立たせた上で、神の子ならここから飛び降りて、天の使いがお前を支えることを見せてはどうかということです。この悪魔の誘惑は、人間にとって決して悪いと思われる方向への誘惑ではないと思えます。場所は荒れ野です。荒れ野に追いやられている人々にとって、パンを求め、栄華と繁栄にこいこがれ、危機に際して神の加護を求めることは共通した願いであろうと思うからです。悪魔はそれらの素朴な欲求、願いを満たしてあげようと言っているのです。けれどその実現には、とんでもない条件がさりげなくつけられています。7節です。「もしわたしを拝むなら」と悪魔は絶対条件をさらっと提示するのです。もし悪魔を拝むら、もし魂を悪魔に渡すのなら、もし神でないものを神とするのなら、という条件です。

◆ イエスが荒れ野で向き合った悪魔とは何だったのでしょうか。そして現代の私たちにとってこの荒れ野の悪魔とは何なのでしょうか。現代の悪魔の誘惑は、巧妙な形で仕掛けられるので、その場では気づかず、すでに敗北してしまってから気づかされるもののことだろうと思います。具体的に想像してみるなら、それは例えば、国家、権威、権力、傀儡の政権、人間が持っている悪魔性、富、軍備、資本、Webサイトに根拠なく流される情報などなど、人間を人間たらしめない様々な力です。このような力に幾重にもとらえられ、混乱させられ、今自分がどこに立っているのか見失わされていることを思うのです。イエスは、そのような状況に置かれている人々、荒れ野にもたとえられる状況に追いやられている人々のところに足を運び、その人々を混乱させているもの、聖書はそれを「悪魔」と表現していますが、それと遠慮することなく対決するのです。そして人々の立っているところを明らかにするのです。自らの立つところを明らかにされたら、例えば自分の心の状態あるいは身体の状態に不安や不調を覚えるときに、その理由や原因を医学的に把握してもらい、客観視することができたら、自らを束縛しているものを知ることができます。そして、知った者は闘うことができます。たとえ途上であったとしても、解放への道を歩むことができます。イエスは私たちがそのような道を歩むための先導者であり、同伴者であろうとし続けられた方であり、今もし続けていて下さっている方です。

◆ 荒れ野で悪魔がイエスに仕掛けた三つの試みに対して、イエスは何れも聖書の言葉によって答えています。いずれも旧約聖書の申命記の言葉です。「石にパンになるように命じたらどうか」という試みに対しては申命記8:3「人はパンだけで生きるものではない」(人は主の口から出るすべての言葉によって生きる)という言葉。「もしわたしを拝むなら、この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」という試みに対しては申命記6:13「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という言葉。そして「神の子なら、神殿の屋根の上から飛び降りたらどうだ」という試みに対しては申命記6:16「あなたの神である主を試してはならない」という言葉を引用して答えています。神の言葉を基盤として生きるということは、神とおつきあいをするということです。

◆ 悪魔が暗躍する荒れ野、神でないものを神とする誘惑の渦に巻き込まれて人間が自らの立ち位置を見失ってしまっている場所にイエスは足を向けました。それは神の意志によるものだと聖書は語ります。神の意志とは人間を人間として生かすことです。かけがえのない命を尊厳を持って生きることを担保することです。人にその道を示すために、本当に大切なことへの気づきをもたらすためにイエスは荒れ野に向かうのです。荒れ野の只中でイエスは悪魔と闘われます。それは厳しい闘いです。その苦しみは十字架にかけられた時イエスが発したあの言葉、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びに通じます。またその苦しみは荒れ野でうめく人々の叫びにも通じるのです。イエスはその荒れ野に立ち続ける方です。十字架上に葬り去られても、なおまた復活し、荒れ野に立ち続けるイエスがいます。

◆ 先月2月24日(日)に「世界遺産姫路城マラソン」が開催されました。神戸新聞社などの共催で、今年で5回目の開催となりました。シドニー五輪女子マラソン金メダリストの高橋尚子さんがスペシャルゲストとして招かれ、ランナーと何度も並走して触れ合い、大会はかつてない盛り上がりを見せました。42.195キロのフルマラソンの制限時間は6時間です。その時間を過ぎても高橋さんは「お帰りなさい」と走者を出迎え、何度もゴールまで走りました。制限時間を過ぎて肩を落とすランナーと手をつないで並走する高橋さんの姿がありました。最後の走者とも手をつなぎ、ゴール前まで並走しました。「さみしい思いで終わってほしくない。楽しかったなと思ってもらえたら」それが高橋尚子さんの思いです。ランナーに呼びかける体力を保つために、一日6時間走り、トレーニングを重ねているのだそうです。なぜそこまで頑張れるのか。「現役時代、たくさんの人に応援してもらった。今は一番の応援団長になれたらと思っています。」金メダリストの恩返しは続きます。

◆ 荒れ野に今も立ち続けるイエスへの恩返しをする、その生き方をそれぞれ考えたいと思うのです。それが神さまとお付き合いすることだと思っています。

2019年3月24日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年3月24日(日)午前10時30分
復活前4主日
説 教:「なぜ歩むのか、その道を」
牧師 望月修治
聖 書:ルカによる福音書9章18〜27節
招 詞:イザヤ書63章7〜8節
交読詩編:107;1-9
讃美歌:26,148,297,481,91(1番)

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