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2019年3月3日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.3.3 ルカによる福音書9:10-17 「空腹への処方」   望月修治      

◆ 福音書にはイエスが行ったいろいろな奇跡物語が語られています。ルカ福音書でも、この9章まででも汚れた霊にとりつかれた男を癒す、重い皮膚病の人を癒す、中風の人を癒す、手の萎えた人を癒す、おびただしい病人を癒す、百人隊長の僕を癒す、やもめの息子を生き返らせるなどなど、イエスは次々と奇跡を行っています。ただ、それらの奇跡とこの9章のパンの奇跡とはかなり異なっていることがあります。イエスが行ってきた奇跡はみな切羽詰まった状況に置かれている人に対して行われています。いずれも何とかして下さいと本人、あるいは家族から求められて、それにエスがこたえて行われた癒しの奇跡、あるいは死んだこどもを生き返らせるという奇跡です。これに対して、今日の箇所に記されているのは、たかだか夕方になってお腹がすいたという話です。しかもイエスの回りにいた群衆が、お腹がすいた、我慢出来ない、飢え死にしそうだ、何とかして下さいと叫んだり求めたりしているわけではありません。今食べなければ飢え死にしてしまうといった切羽詰まった状況ではありません。弟子たちが心配しただけです。弟子たちはイエスに、もうこの辺で集会を切り上げて、群衆を解散させ、自分たちの食事のことは自分たちで何とかしてもらったらどうですかと提案します。

◆ イエスは、この提案を超えます。弟子たちが案じた状況にもっと踏み込んで行きます。皆に買わせるのではなく「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言って、弟子たちを、パン五つと魚二匹で5千人をこえる人達の空腹を満たすという奇跡に引きずり込んでいくのです。この出来事は、他の場合のように切羽詰まった状況があって、何とかしてほしいと求められて行った奇跡ではなく、イエス自身が自ら踏み込んで、そして弟子たちも巻き込んでいった、そういう奇跡であり、出来事です。そこに今日の箇所に記されている出来事の大きな特色があります。

◆ ではなぜイエスはここで、このようなことを行ったのでしょうか。その理由を解き明かすことが今日の箇所の課題です。9章の冒頭に次のように記されています。「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わす。」すなわち9章の物語は、イエスが12人の弟子たちを宣教の働きに派遣するということから始まっているのです。8章までは、宣教の主役はいつもイエスであって、弟子たちはイエスに従って一緒に行動してきました。そしていつもイエスが神の国のこと、神の働きのことを語り、病気を癒し、悪霊を追い出すことをしてきました。ところが9章に入りますと、弟子たちが言うならばひとり立ちをします。イエスから離れて、12人の弟子たちが自分たちだけで出かけて行きます。イエスは弟子たちに、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能をお授けになって、派遣した。つまりイエスが神から与えられているのと同じ力を弟子たちに与えて、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために派遣したのです。弟子たちはイエスと同じことをするために出かけて行ったのです。

◆ 福音書記者のルカは、ここに教会の歴史の始まりを見ています。イエスに呼び集められることで交わりが生まれる、それで完結するのではなく、出かけていく、神の国を宣べ伝えるために遣わされて行く、出かけて行く、それが教会なのだというのです。人が来てくれるのをただ待っているのではなく、出かけて行く。出かけて行って、神の働きを語り、そして必要とされている支えや助けや支援を差し出す役割を担うこと、それをイエスは弟子たちに求めたのであり、弟子たちは出かけて行って、自分たちに託された働きを担ったのです。その派遣の旅で弟子たちはさまざまな人の人生に向き合い、訴えや叫びを聞き、自らの身に受け止めさせられるという体験をしたのです。その旅から帰ってきたということです。

◆ この流れがあって、五千人の人たちの空腹をパン五つと魚二匹を配ることによって満たすという奇跡物語が語られているのです。伝道の旅から帰ってきた弟子たちは、自分たちのしたこと、旅先で起こったことをすべてイエスに話しました。それから「イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」とあります。そしてその退いたベトサイダでこの奇跡は起こされました。先程も申し上げましたが、この出来事は人々がイエスに何とかして下さいと求めたから、それに応えて起こされたことではありません。状況的には群衆を解散させれば済むことでした。ですからこの出来事は、弟子たちが伝道の旅から帰ってきて、彼等から報告を聞いた、それを受けて、イエスが意図的に起こしたことであったと読むことが出来ます。

◆ それはおそらく弟子たちに確かめ直してほしいこと、心に刻んでほしいことがあったからだと思うのです。「イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」と書かれていることから、そのように思うのです。「退く」という言葉は原語では「ヒュポコーレオー」という言葉なのですが、この言葉は新約聖書の中で、今日の箇所も含めて2回出てくるだけなのです。もう一カ所もやはりこのルカによる福音書です。5章16節です。「だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」という箇所です。ここでイエスは重い皮膚病を患っていた人を癒したのですが、そのことを聞きつけてたくさんの人が集まってきてイエスに関心を示した。けれどもイエスはその場から退いた。それは祈るため、つまり神と向き合うためであったというのです。ですから今日の箇所で「ベトサイダという町に退いた」というのは、単に休息をさせたかったということではなく、神と向き合わせるためにということが含まれていることになります。

◆ 弟子たちがイエスから遣わされて伝道の旅にでた。その旅はどのようなものであったのかが6節に記されています。「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。」あちらの村でもこちらの村でも、弟子たちは病気で苦しむ人たちを癒すことができた、その体験をイエスに報告する弟子たちの心は高ぶっていたはずです。心の高ぶりは、なぜそのようなことが起こりえたか、その理由を忘れさせてしまうことがあります。イエスはそのことを弟子たちの報告に感じて「自分たちだけで退く」という行動をとったのだと思います。そして5つのパン2匹の魚で五千人の人たちの空腹を満たし、しかも12の籠一杯のパン屑が残っていたという奇跡に弟子たちを引きずり込むように立ち会わせたのです。

◆ 空腹を覚えている人たちが五千人もいる。一方手元にあるのは五つのパンと二匹の魚。この状況で五千人の人たちが皆例外なく満腹するということが起こる。その時、人は自分の力でそのようなことが出来たとは思わない。否が応でもそこには他からの力が働いていることを思うはずです。そしてこの力は特別な状況のときに限られているのではなく、いつも私たちに届き、私たちを包み込んでいるのです。特に切羽詰まった状況にいるわけではない五千人の人たちなのに、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いでそれらのために賛美の祈りを唱えて配るイエスの姿は、今人々を包んでいる神の働きを手に取って人が分かる形にして差し出し、その味わい深さを伝えようとする姿に思えるのです。そしてそのように働く神の業を誰かのもとに出かけて伝え、分かち合う、そこにこそ教会の始まりの姿、原点があることをルカは伝えたかったのだと思うのです。

2019年3月17日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年3月17日(日)午前10時30分
復活前5主日
説 教:「ぶどうの木の枝とされる」
吉居美緒神学生
聖 書:ヨハネによる福音書15章1〜11節
招 詞:ヨハネによる福音書4章14節
交読詩編:16;1-11
讃美歌:26,210,393,196,91(1番)
○礼拝場所:静和館4階ホール

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