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2018年9月9日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.9.9 コリントの信徒への手紙Ⅱ 9:6-15 「心の決めたままに」 望月修治    

◆ 新約聖書の27の文書の中で、パウロが伝道するために書いた手紙は、最も多い分量を占めています。手紙という手段は、当時考えられる最も便利な情報源でした。パウロの伝道活動は、本人の伝道と手紙と弟子の派遣という三つのツールによって、アジアだけではなくギリシア、ローマにも福音が伝えられて行きました。

◆ コリントの信徒への手紙はⅠとⅡがあります。第一の手紙はコリントの教会の人たちからの様々な質問に対する応答という性格を持っています。第二の手紙の内容や文体は第一の手紙とは大きく異なり、パウロの赤裸々な感情が溢れています。第二の手紙の2:4に「涙ながらに手紙を書きました」と記されていることから、「涙の書簡」という呼び方もされています。手紙に託してパウロは心の中にあるわだかまりを吐露していますが、使徒としてそこまでやってよいのかとも思います。同じパウロの手紙である「ローマの信徒への手紙」の公的な内容、信仰についての教え、教義を秩序だって書き記した手紙と比べて、この第2の手紙は涙や怒りや喜びや悲しみ、感情の起伏が多すぎます。しかし事実、双方ともパウロの手紙なのです。

◆ 第二の手紙9章にはエルサレム教会への献金のことが書かれています。パウロは8章で献金について説明し、金額のことだけではなく、「慈善の業」、「恵み」、「愛の証し」などと言い方を変えながら献金の意味について説いています。文面からするとマケドニアでこの手紙を書いているようですが、コリントの教会とマケドニア州の教会の間には無視できない貧富の差がありました。そのような経済力の格差を承知した上で、しかし貧しい地域の人たちにも、豊かな地域に住む人たちにも、献金に協力してほしいとパウロは訴え、献金は金額ではなくて心のありようだと説きます。そのことを「渋りながらではなく、惜しまず」という心構えとして説いています。「渋りながら」というのは「けちな心をもって」というのが元来の意味です。ケチりながらの献金など、受ける側としては面白くありません。相手のことを思って献げられたものであれば、受け取る側も恵みとして喜んで受けることができます。お金は人を喜ばすこともありますが、逆に傷つけることもあります。恥をもたらすこともあります。パウロはそのことを十分に承知していたからこそ、各地域の状況に配慮しながら、献金を呼びかけていきました。8章2節でマケドニアの教会の人たちの献金について、「その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」と述べ、献金を献げる者の手本だと紹介して、コリントの教会の人たちに献金の用意をちゃんとしておいてほしいと要請をしています。そしてそのために人を選び一足先に派遣するから「以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だ」(5節)と書き送ります。「お金」とは直接書かずに、「贈り物を」と書いている所に、パウロの心配りが感じられます。使徒としてお金の要請はしにくかったのだと思いますが、エルサレム教会の状況を考えると放置しておくことは出来ませんでした。

◆ 9節に「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と記していますが、これは詩編112:9からの引用です。惜しみなく、すなわち相手のことを思って分かち合う、その行為を神は慈しんで下さり、ずっとその思いが続くように働きかけて下さるのだとパウロは語ります。
また10節では種を蒔き、収穫をしてパンを作る作業を例に挙げて、献金によってなしうる働きの大きさについて具体的に示します。後世の教会において、献金をすすめるとき、あるいは献金のことを言いにくい時には、このパウロの言葉を提示して、献金の心がまえを伝えるということが伝統となりました。誰かのことを思って、その働きを少しでも支えようとして献げる献金を神は用いて「実を成長させてくださ」るということです。その実とは何かと言えば、「神に対する感謝の念を引き出」すこと、そして「この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになる」ということです。献金をパウロは「奉仕の働き」、「奉仕の業」とも表現しています。奉仕(レイトルギア)は本来「祭り」「礼拝」を意味していましたから、パウロは献金という行為が神の礼拝にあずかることと同じだと見ていたことが分かります。

◆ 献金をするときに思い起こさなければならないことがあります。第一に「すべては主のもの」ということです。人は皆、神の恵みによって「生かされて生きている」存在なのだ聖書は語ります。それを詩編の詩人は「あなたは、わたしの内蔵を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。」(139:13)という表現でうたいました。

◆ 第二には、「すべてが主(神)のもの」である以上、献金とは、私たちが自分の物を神にプレゼントすることではないのです。そうではなくて「返還すること」「神のものを神に返すこと」「本来の所有者に引き渡すこと」です。人はしばしば次のように言います。「私のものは私のもの」「私のものを私が好きなように使ってどこが悪い」と。しかしそれは違っています。本末転倒というべきです。

◆ 献金について想い起こすべきもう一つの大切なことがあります。それは、神の恵みとして私たちに与えられている最も大きな贈り物はイエス・キリストだということです。そのことを8:9でパウロはこう記しています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」

◆ パウロによれば、人は「主の豊かさ」を与えられて「豊かになり」、その分「主は貧しくなった」のです。そしてパウロはこの文脈の中で、コリントの教会の人々に貧しい人々を援助するための募金に協力してほしいと呼びかけているのです。献金を捧げるとは、キリストから与えられた「豊かさ」を感謝し、その「豊かさ」を返還することであり、またその「豊かさ」を隣人と共に分かち合うことです。したがって献金を捧げるということは、単にお金をささげるということではなく、イエス・キリストの生き方を想い起こし、キリストに従う者として生きる決意を新たにすることであり、自分自身を献げることです。

◆ 献金の時に「この献げものを主の御用のためにお使い下さい」ということが祈られますが、用いられるのはお金だけの意味ではありません。私たち自身が「主の御用」神の働きに用いられて1週間を歩むことができるようにという祈りです。毎週のこどもの教会の礼拝で、みんなで祈る献金の祈りは、献金をする時に思い起こすべきことがきちんと表現されています。「神さま すべてのものは、あなたからいただいたものです。 このからだもお金もあなたのものです。 いま、わたしたちのからだをおささげします。 そのしるしに、けんきんをささげました。 この一週間も、神さまにしたがって生きますから、みこころのままに 導いて下さい。イエスさまのみ名によっておいのりいたします。アーメン」 献金は礼金でもお賽銭でもありません。また会費やカンパでもありません。私たち自身が神の働きに用いられるようにという献身のしるしであり、祈りなのです。

2018年9月23日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年9月23日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第19主日
説 教:「苦しみの欠けたところ」
牧師 望月修治
聖 書:コロサイの信徒への手紙
1章21〜29節
招 詞:創世記32章30〜31節
交読詩編:43
讃美歌:25,120,474,479,91(1番)

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