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2017年12月10日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.12.10 エレミヤ書36:1-10 「口述筆記」  望月修治 

◆ 12月2日の午後、栄光館ファウラーチャペルで「ミス・デントン生誕160年・永眠70年記念会」が、同志社同窓会の主催で行われました。記念礼拝と記念講演会に出席させていただきました。皆から敬意と愛情を込めて「ミス・デントン」と呼ばれ、晩年「同志社の宝」と称されたひとりのアメリカン・ボード宣教師の生涯、同志社女子教育の礎を築いたミス・デントンの同志社での歩みを、宣教師文書(もんじょ)で読み解いていく。それは同志社の女子教育に多彩な光を当てることだと思いました。同志社女子部で学んだ皆さんにとってミス・デントンは語り尽くせぬ深みを感じさせる稀有な存在であったのだと思います。しかしそれは遠い手の届かない高みに達したというのではなく、生徒たち、学生たちに日々の暮らしを通して届けられたミス・デントンの息遣いに宿っていたものであったのではないかと感じました。講演会でいただいた「ミス・デントン レシピ集」を読んで、そう思いました。ミス・デントンは同志社女子部でいろいろな教科を教えたのですが、特に料理を教える授業での教育法はユニークであったと、レシピ集の巻頭言と巻末に記されていました。授業の前日に料理法を英文で黒板に板書し、料理手順を示すイラストも合わせて書いておいたというのです。生徒たちはそれをノートに書き写し、実習後の感想を英文で書き、ミス・デントンはその授業ノートにコメントを書き添えたということです。「ミス・デントン レシピ集」は、当時の生徒たちの授業ノートが女子大学史料センターに保管されていて、そのレシピをもとに料理を再現し、試食もされた中から20のレシピを選び編集されたものだと知りました。生徒たちにとってこの授業ノートに書き写し、感想も記したレシピは、自分の手で料理し試食した時の印象の深さの記録でもあるとともに、ミス・デントンという一人の教師を体感し味わった記録でもあったのではないかと思いました。さらにいうならば、メアリー・フローレンス・デントンという人を召し出し、日本という異国に派遣し、京都の地に生かしめた神の働きに触れた記録でもあったと言えるのではないか、とも思いました。「神の働きを伝えるレシピ」だと言っては、言い過ぎでしょうか。

◆ 「あなたの御言葉が見出されたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び踊りました。」 神の言葉をむさぼり食べると語ったのは預言者エレミヤです。エレミヤ書1:2によればエレミヤが神の召命を受けたのは「ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第13年のことである」とありますから紀元前627年のことです。その時、彼は20代の若者でした。当時イスラエルも含めて中近東の世界を支配していたのはアッシリアです。その支配は二百数十年に及びました。2世紀を超える長きに渡って、アッシリアは強大な軍事力を背景に支配下に置いた国々を踏み荒らし、奪い、残虐行為を繰り返しました。ですから近隣諸国にとってアッシリアの支配は恐怖の的でした。しかしそのアッシリアが内部分裂を起こします。まず紀元前630年にナボポラサルという人物が袂を分かち新バビロニアという国を興し、更に翌年にはキアクサレスという人物が独立してメディアという国を興しました。そして18年後の紀元前612年に、この両国はアッシリアに総攻撃を加えて、滅亡させました。アッシリアの急激な没落は、支配の手立てが残虐であっただけに、近隣諸国には大歓迎され、没落による解放の喜びはイスラエルにも充ちていきました。古代オリエント世界の大変動期です。

◆ エレミヤはこのような時代に登場しました。アッシリアの滅亡によって人々が新たな安定を予感し、共有していった時に、エレミヤは災いの到来を語り、イスラエルは滅びると預言し、神の厳しい裁きを繰り返し告げたのです。当然のことながら激しい反発を受けます。エレミヤは人々の迫害にあい、嘲笑にも耐えねばなりませんでした。裁きを語ることが神から託されたことであったがゆえにエレミヤはその務めを担うのですが、しかし恥とそしりを一身に受けることになりました。「わが母よ、どうしてわたしを産んだのか」と自分が生まれてこなかった方がよかったとさえ言っていますから、彼の味わった苦しみは尋常ではなかったことを私たちは知るのです。

◆ それなのにエレミヤは神の裁きを告げることを自らの役目とし続けました。そこまで彼に言わせたものは何か。その理由を語っているのが先ほど引用した言葉です。「神の言葉をむさぼり食べ」たからだというのです。神の言葉を読んだからだというのではありません。聞いたからだというのでもありません。あるいはそうしなければならないという義務感からでもありません。食べたからだというのです。「あなたの御言葉をむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び踊」ったからだとエレミヤは告白しているのです。神の言葉を食べると表現されるほどの体験、自分が突き動かされ、押し出されるほどの強い促しを味わったからだというのです。

◆ 本日の聖書日課はエレミヤ書36章です。ここにも言葉に関する記述が出てきます。神の言葉を巡ってエレミヤは神からこう求められました。「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、及び諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。」 エレミヤは自分に語られた神の言葉、むさぼり食べたという神の言葉を、巻物に書き記せと命じられたのです。そこでエレミヤは書記のバルクに自分が聞いた神の言葉を語って聞かせ、口述筆記させました。そして神の言葉を書き記した巻物を神殿に集まった人々に聞かせなさいとバルクに命じました。

◆ 言葉を書き記し、読み聞かせる。それは言葉を食べるという体験もたらす道筋です。神の言を食べるとは聖書に向き合い、それを受けとめて生きて行くことです。では聖書を読むとはどのようなことを私たちにもたらすのか。聖書の世界は何を私たちにもたらそうとするのか。それによって何が私たちに起きるのか。聖書は私たちが生きている世界、向き合っている出来事、担っている現実への新しい見方、異なった見方、思いがけない受け止め方を命の用い方のレシピとして、人生という黒板に板書し、人生ノートに書き写し、調理して食べてみること、味わってみること、体験として知ることを促すのです。命の用い方についての神様のレシピを味わい、生きることへの視点が変わっていくこと、それが聖書の語る「救い」です。

◆ 今アドベントを迎えて、神が人々の救いの道を示すために起こされた出来事、イエスの誕生の出来事を新しく迎え祝う備えの時を歩んでいます。マタイ福音書とルカ福音書にイエスの誕生物語は記されています。世界で一番はじめのクリスマスを味わって行った人たちは、いずれも神の言葉に戸惑いあるいは驚き、そしてその言葉を食べてみようと心を定め、結果の保証は信頼しかない世界に踏み出して行きました。年を重ねて100歳、90歳になっていた時に男の子が与えられると神から告げられた祭司ザカリアと妻エリサベト、自分に覚えがないのに許嫁が身ごもったと告げられたヨセフ、許嫁を裏切るようなことは一切していないのに男の子を産むと天使から告げられたマリア、遠い国から星を見て旅立った占星術の学者たち、ヒツジの番をしていた夜に救い主がお生まれになったと突然告げられた羊飼いたち、この人たちは皆、戸惑いならが、悩みながら、不安に揺れながら、神の言葉を食べることを促され、新しい命の道を見出し、そして私たちにも神の言葉を書き留め味わうことを促しているのです。

2017年12月24日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年12月24日(日)午前10時30分
降誕前第1主日 クリスマス礼拝
説 教:「そのとき光の物語が始まる」
牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書1章1〜14節
招 詞:イザヤ書52章9-10節
交読詩編:98
讃美歌27,259,257,524,91(1番)
聖歌隊による賛美 「喜べや、地と天よ」「主よ、人の望みの喜びよ」

※洗礼式・聖餐式を行います。

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