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2017年12月3日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2017.12.3  ヨハネによる福音書3:16  「福音の要」 横井和彦          

◆ 新島襄は、今日の聖書箇所を「聖書の中の太陽」「福音の要」と絶賛して、終生、もっとも愛好いたしました。このみ言葉では、神様の愛、私ども人間に対する神様の愛が語られています。新島は、「キリスト教とは何か」と人から尋ねられたら、「愛をもってこれを貫く」と答えたい、と述べました。同志社教会創立141年にあたり、この同志社教会に、そして同志社教会につながるすべての方々に、新島を通じて宣べ伝えられた、神の愛が満ちあふれますよう願わずにはいられません。

◆ 神様が愛してくださった世、すなわち私ども人間の世界、もっと言えば私ども人間は大変弱く、誉れを求め、快楽に身を任せ、自分だけの利益を求めてしまいます。創立者、新島襄が、自由を拡大し産業を振興し、人々に良い手本を示し、学問ある者が自ら尊大にならず先生風を吹かさず、かえって自分の身を地方社会に犠牲となし、社会の進歩をはかるような人になるよう養成すれば、「わが国は振るわない」とか、「民権が生まれない」などと誰が心配するであろうか、と述べたように、新島が創立した同志社の法人内諸学校が、この新島の志を引き継ぎ、学問の探求とともに、キリスト教を徳育の基本として人格を陶冶する教育機関たりうるよう、私ども同志社教会の働きが学園同志社とともにあることを願ってやみません。

◆ 神様は、何かを受けるに値しない私どもの中に、御子をお与えくださり、さらにその御子を信じる新島襄をお与えくださり、そして同志社教会という器を備えてくださいました。私どもは、この同志社教会の創立が、神様の全く一方的な愛、すなわち恵みの故になされたことであると信じ、創立150年、さらには200年を見据えて、学園同志社とともに、これからも、新島の志を中軸にした「同志」となって、彼が目指した学園と教会の完成を実現したいものです。

◆ 本日は、新島の言葉をいくつか紹介するとともに、その背景についてお話しすることで、学園同志社、そして同志社教会の創立者、新島襄が目指した学園と教会の完成には何が必要かを考えてみます。
最初にご紹介したい言葉は、「教育の法方(ほうほう)は実用に立つ人間を養成す、所謂(いわゆる)芸術が入用なり。然(しか)し重(おも)なるものを占むるは人物が本(もと)になる。」です。新島は教育について語る際に、しばしば、「人材(才)」ではなく「人物」を育てる、と語っています。「人材」と言うと、人を役に立つかどうかだけで判断するイメージが強くあります。けれども、「人物」と言うと、人の内面的徳性を問うているように感じます。

◆ 新島はこれに続けて言っています。「好(よ)き人物になりて芸能があればその人の働きが広く国家へ働き多くなる。……人物がよからずして芸能にすすむも世に害を為(な)す多し」と。学問や技術を習得したり、使うことは、その人の内面的特性によっては、国や社会にとって有益にもなり、また有害にもなると言っているのです。それでは、新島はどんな内面的特性を期待しているのでしょうか。

◆ 次に「さらばとて欧米の学術を講究すれば智識は開達すべしと思い、従来古聖人の道徳を廃棄して、西洋文明の中心なる道徳を捨て、その皮相なる学術のみを取りてこれを学べば、現今日本教育の結果を得るに至るべし。」という言葉をご紹介いたします。新島は、いわゆる書物派知識人、すなわち欧米の書物の翻訳に終始した人々の啓蒙活動とは異なる文明紹介・日本批判を展開しました。新島はこう続けています。「……洋学者流も近来は銭(ぜに)取り仕事を最上の学問とし、人を詭(あざむ)きても銭さえ取れば最上の学問と云い、智識が発達したと云い、己(おのれ)の品行等を破り恥を恥ともせざるの徒、往々世間にあれば、これ等の教育学問は人の志操をして卑賎下等に向かしめ、……」つまり、表面的な知識の吸収だけでは、かえって不幸をもたらすとさえ言っているのです。欧米文明の根底にあるものを見抜いていたからこその批判と言えるでしょう。

◆ いよいよ新島の教育観の真骨頂と言えるのが、次の言葉です。「抑(そもそ)も教育は、宗教と密接の関係ある者にして、教育の基本は宗教にあり、と謂(い)うべし。」近年、大学教育において「リベラル・アーツ」が注目されています。一般的には古代ギリシャ・ローマで「人を自由にする学問」として生まれ、言葉に関わる「文法」「修辞学」「論理学」の三つと、数学に関わる「算数」「幾何」「天文」「音楽」の四つの「自由七科」を指すとされています。日本では「教養」と訳されることも多いのですが、実は、正確には、人間が神様から授かった二つのテキスト、すなわち「聖書」と「自然・宇宙」を学ぶための学問が「リベラル・アーツ」なのです。前者三つは神様のみ言葉である「聖書」を、後者四つは神様の被造物である「自然・宇宙」を学ぶための学問なのです。つまり、欧米の大学教育の基本には宗教、すなわちキリスト教があるということなのです。ちなみに、新島が学んだアーモスト大学は、みなさんご存知のとおり、全米屈指のリベラル・アーツ・カレッジです。そして新島は、はっきり言っています。「……教育と宗教の関係、実に一なる所より然(しか)らしむ。而(しこう)してわが同志社教育は、実にキリスト教と密接の関係ある者にして……」と。実は、この言葉は、同志社礼拝堂の定礎式における式辞の一部です。そこで新島は次のようにも言っています。「欧米文明諸国、いずれの著名なる学校にも、礼拝堂の設けなきはあらず。且つ、最も美麗を尽くし、十分善良に作りあるを見る也」と。そしてこれに続けて、「この礼拝堂は、わが同志社の基礎となり、また、精神となる者なればなり」と力説しているのです。礼拝堂、つまり同志社教会こそが、大学の象徴であり、同志社を大学たらしめているとさえ言えるのです。

◆ しかし現実はどうでしょうか。新島は続けます。「西洋諸国の学校に於(お)いては、已(すで)に宗教の教育に欠くべからざる関係あるを知り、これを貴重すと雖(いえど)も、我が日本は未(いま)だ然(しか)らず。基督(キリスト)教を賤(いや)しむるは、学生の常にして、わが同志社にも亦(また)、この教えを嫌う者なかりしにあらず。然るに今日、この堂を神に捧ぐる事を得るは、真に進歩を顕(あらわ)す者と謂(い)うべし。又、今日の時勢を見る時は、この堂は是(これ)、実にわが日本に大なる関係を有する者なり、と信ずるなり」と。「今日の時勢」とはもちろん、当時、すなわち、1885年12月18日のことですが、けれども、今日只今とまったく変わっていないと思うのは私だけでしょうか。

◆ 同志社大学キリスト教文化センターは、学生や教職員にキリスト教を強要するものではございませんが、学生に建学の精神についての理解を深め、同志社大学のキリスト教主義を知ってもらうために、同志社教会との協同が不可欠であると存じます。今出川校地でのクリスマス・イブ礼拝はその先駆けとして定着いたしました。春の新入生歓迎礼拝や秋の特別礼拝などの取り組みも始まっています。

◆ 「自由教育、自治教会、両者併行、国家万歳」が、新島襄のモットーでした。教育と伝道は、車の両輪なのです。教育活動と併行して、教会の設立やキリスト者の育成に渾身の情熱を注いだのでした。そしてキリスト教を徳育の基本とする教育と、教会という二つの要素を起爆剤として、封建日本を打破し、精神的な近代化を成し遂げようとしたのです。このことこそが、私どもにとっての「福音の要」であり、けっして忘れてはならないのです。

2017年12月17日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年12月17日(日)午前10時30分
降誕前第2主日
説 教:「とこしえに立つ神の言葉」
牧師 髙田 太
聖 書:イザヤ書40章1〜11節
招 詞:マルコによる福音書 1章1-3節c
交読詩編:85;2-14
讃美歌25,237,193,233,91(1番)

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