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2017年11月12日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.11.12 創世記15:1-18a 「跡を継ぐ者は誰」  望月修治 

◆ はるかに遠い昔、一人の人の名を記すことからイスラエルの歴史は語り始められています。アブラハムです。彼の物語は創世記12章から始まります。その冒頭には「主はアブラムに言われた」とあります。これは宣言だと言ってよいかもしれません。ここから語られていくイスラエルの民の物語の主役は神であるという宣言です。神がアブラハムという一人の人間を召し出して、彼と契約を結んだ、そこからイスラエルの長く壮大な歴史物語が始まるのです。

◆ 15章はアブラハム物語の中心的な位置を占めています。実は新約聖書において、パウロがローマの信徒への手紙4章でこの15章を取り上げて、「信仰による義認」「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのだ」という、彼の信仰理解、神学の中心となることを説いているのです。いろいろな意味で重要な位置にあるのが15章です。ここで神がアブラハムに語りかけた最初の言葉は「恐れるな」です。何人の人が神からこの言葉を聞いたことでしょうか。イエスもまた弟子たちや人々に向かって「恐れるな」と語りました。

◆ 神は語りかけます。「恐れるな、アブラムよ。」 裏を返せばアブラハムの心には恐れがあったのです。彼は神の約束を受けています。その約束は「彼を大いなる国民にする」という約束であり、「子孫にカナンの地を与える」という約束です。しかしこの二つともアブラハムに子が与えられて初めて実現する約束です。跡継ぎがいなければ意味を持たない約束です。彼がハランを旅立ったのは75歳の時です。その時からこの時点までおそらくハランを出て10年近い年数を経ているはずです。その間に起こった出来事は、神の約束が実現するという方向に向いているとは到底思えません。肉体は衰えを見せ、時だけがいたずらに経過していくだけで、約束が実現する可能性はどんどんと遠のいていく。だからアブラハムは恐れていました。不安に揺れ続けるのです。

◆ しかし神はアブラハムに対して、その不安や恐れを解くための言葉を語らず、ただ「恐れるな」と言うのです。アブラハムは納得できません。一番大切な子供が与えられるという約束がまだ実現していない状況がただ続いているのに、「恐れるな」などと言われても、「そうです。おっしゃる通りです」とはとうてい言えない。受け入れることなどどうしてできるのか、アブラハムはその思いを神にぶちまけます。2節です。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしは子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」エリエゼルはアブラハムの家の僕です。

◆ 神はなぜ、アブラハムに子を与えることを遅らせておられるのか、せめてその理由示されるなら、納得できたかもしれない。しかし神はその理由を示さない、理由を示さずに、なお約束を信ぜよという。だからアブラハムは納得しないのです。この状況においてアブラハムは黙々と神に従うということをしません。言いたいことを面と向かって神に述べ、抗議の意思を明らかにします。彼の抗議の言葉は具体的です。3節です。「ご覧の通り」と切り出します。「神さま、あなたが一番よくご存知ですよね」と挑みかかるように切り返し、「あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから」と続けます。子供が与えられるかどうかは、神によっています。だからこの事態の責任は神さま、あなたにありますよね、はっきりそう言っているのです。そして「家の僕が跡を継ぐことになっています」と続けます。奴隷を養子にして、跡を継がせる以外に何か方法がありますか。そのようにするしかなくなった責任は、ひとえに、子供を与えない神さま、あなたにあるのです。それがアブラハムの言い分です。

◆ 自分の心の中をさらけ出して、全身で抗議するアブラハムに対して、神もまた一歩も後ろに引かないのです。では神は何と応じるのか。「その者があなたの跡を継ぐ者ではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(14節)と神は言い放ちます。子供が与えられないので、アブラハムは止むを得ず家の僕の一人を養子にしようとした。それ以外に、神の約束が実現する手立てはないだろうと考えた結果です。しかし神は「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と言う。養子はだめだという意味です。さらなる隘路にアブラハムを追い込むような神のことばです。跡継ぎは養子ではない、あなたから生まれる者だという。でも妻のサラにその兆候はついぞ起こらなかった。ましてもう歳をとっている。そうれではどうする? サラの進言で、サラに仕えていた若いエジプトの女奴隷を妻にして、彼女との間に子供を得ようします。手立てはどうであれ「あなたから生まれる子」には違いないからです。しかしアブラハムとサラが知恵を絞って出した結果に対しても神は「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む」(17:19)と言うのです。

◆ こうしてアブラハムが人の知恵によって考え出した方法は一つ一つ否定され、退けられてしまい、人間的にはもっとも困難と思われる道、困難などというよりも不可能な道、ありえない道だけが残されるのです。アブラハムは追い詰められたのです。神はそのアブラハムを天幕の外に連れ出し、言うのです。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」この場面は15章の物語のハイライトです。実に美しく感動的な場面です。神は天を仰いで星を数えるようにとアブラハムに語りかけます。見上げた空に広がっているのは、魂を奪われるような星の世界です。空気の澄んだ砂漠地帯では、夜になると息を呑むような星の饗宴が開かれます。目をつぶって想像してみてください。澄み切って、冷気を含んだ大気に包まれながら見上げる空はすべて、無数の大小の星々のきらめきで満たされています。その荘厳で華麗な輝きを仰いでいると、何人も想いはいつか地上の雑念を離れ、永遠の世界。天の彼方に馳せていくような気持ちへと誘われます。その時に神は、アブラハムの子孫がこの星の数のように増し加わることを告げます。アブラハムはその言葉をそのまま信じたと聖書は語っています。そこには目に見える保証など何もありません。しかしアブラハムは神の約束を自分の中に受けとめたのです。

◆ この場面、分かるような気がするのです。合理的な説明などないけれど、そうだよねと素直に思える、そんな出会いが私たちにもなかったでしょうか。誰かと話をしていた時、誰かの生き方に触れた時、誰かの歌を聴いていた時、誰かが懸命に生きて涙を浮かべ、ただ黙って佇む姿を見た時、不思議だけれど、言葉に紡ぎ、織りだすことはできれないのだけれど、心が動き、共感し、そうだねと涙を流しながら頷いている自分に気づいた時がなかったでしょうか。やはり涙を流している人を一緒に感じたことはなかったでしょうか。

◆ アブラハムはこの時ただ素直に、ただまっすぐに神を信じたのです。そしてこの対応によって、神から「義と認められた」と記されています。義とはどういうことか。今日の物語の中に答えを探すなら、義とは神とアブラハムが深くつながったということです。神の思いが人にきちんと受けとめられること、あるいは神に圧倒されること、それが義ということです。

2017年11月26日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年11月26日(日)午前10時30分
降誕前第5主日 収穫感謝礼拝
説 教:「選びと実り」
牧師 髙田 太
聖 書:サムエル記上16章1-13節
招 詞:イザヤ書45章2-3節
交読詩編:89;20-30
讃美歌:24,16,521,481,91(1番)

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