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2017年11月5日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.11.5 ヨハネによる福音書14:1-14 「あなたの居る場所」    望月修治    

◆ NHKスペシャルで「ばっちゃんー子どもたちが立ち直る居場所ー」というドキュメンタリーが放送
されました。今年82歳になった中本忠子(ちかこ)さんと家庭環境などの理由で居場所を失った子どもたちとの関わりを取材した8年間の記録です。中本さんは30年前まで保護司をしていました。その長年の経験から、「非行の根っこには空腹がある」と確信して、広島市内にあるマンションの自宅を開放し、手料理を振る舞い、親身になって相談に乗りながら、多くの子どもたちを立ち直らせてきました。その働きは30年に及びます。その間に関わった子どもの数は300人を超えます。保護司として担当した子どもたちに「手料理を振る舞い、話を聞く、そこから始まりました。やがて担当する子どもだけではなく、その友達もやってくるようになり、さらに中本さんのことを伝え聞いて突然訪ねてくる子どもいます。貧困、育児放棄、さまざまな理由で非行に走る。ある日一人の少女からと突然電話がかかって来ました。以前からばっちゃんの家に出入りしていた子です。「住むところがなくなった」という声が聞こえてきました。親に暴力を振るって家にいられなくなったのです。その暴力は、全く自分に関わろうとしないネグレクトの親への怒りをどうしても止められなくなったからでした。「ばっちゃんがおらんかったら、今生きていたかどうか分からない」「一番辛かったのは居場所がないこと、心の居場所がないことが辛い」と彼女は語っていました。「なぜ続けることができるのですか」と取材スタッフが問いかけます。「私にもよう分からん。なんでここまでせにゃいけんの!とヒスを起こすこともあるけん。辛いばっかりじゃ」と中本さんは答えます。ある日スタッフがまた尋ねました。「なぜ続けられるのですか?」どうしても知りたいことでした。言葉が返って来ました。「子どもから面と向かって助けてと言われたことがない人には分からんのじゃないの。」

◆ 心が激しく揺さぶられる思いがしました。イエスはなぜ十字架への道を歩んだのか。「わたしは死ぬばかりに悲しい。この杯をわたしから取りのけてください」と苦しみ悶えて祈らなければならなかった道を、しんどい道を、辛くてたまらない道をなぜイエスは歩んだのか。そう問うわたしにイエスも言うのではないか。「ひとりの人から面と向かって助けてと言われたことがない者に分からないだろうね。」 「いちばん辛かったのは居場所がないこと。心の居場所がないことが辛い」、人間のその辛さにイエスはヨハネ福音書14章1節以下の言葉を語りかけたのではないかと思いました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」 人間にとっていちばん辛いこと、居場所がないこと、心の居場所がないこと、その辛さから人を解放し救い出すために居場所を用意するとイエスは約束してくださったのだと思いました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。わたしを信じなさい」というイエスの言葉を、カトリック司祭の本田哲郎さんは次のように訳しています。「心を不安にしてはならない。神に信頼して歩み、わたしに信頼して歩みを起こしなさい。」 「信じる」とは「信頼して歩む」ことです。それは単に心の持ち方をいうのではなく、わたしを信頼して歩みを起こすことだとイエスは語ったのです。

◆ 「心を騒がせるな」とイエスがこの時、弟子たちに語りかけたのは、彼らが落ち着かなくなって、どこか浮き足立っていたからです。弟子たちはおそらくつかみどころのない不安、得体の知れない不安に揺れ始めていたのではないかと思います。自分の居場所、いつも帰れるはずであった場所、頼れるはずの存在が失われると感じ始めていたのです。その揺らぎの理由が、最近彼らに語ってきたことにあるとイエスは分かっています。例えば13:21では、弟子たちの中から裏切るものが出るとイエスは語っています。続いて同じ13章の36節では、ペトロが鶏の泣く前に三度イエスのことをしらないと言うだろうと告げた上で、さらに「わたしの行くところに、あなたがたは今付いてくることができない」と不安を一層煽るようなことを語っています。イエスがとんでもない事態が起こるようなことを言い出した、別れを暗示するような発言をする、そのことが弟子たちに不安を抱かせていきます。その揺れと不安をここで体現しているのはトマスという弟子です。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と率直にその不安をイエスに投げかけます。信頼して歩めといわれても、どこへ向かってどのように生きたらいいのか分からないというのです。このトマスいう人物は、十字架で処刑され息絶えたイエスが、復活して弟子たちのいる部屋に姿をあらわしたとき、その場に居合わせず、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったというエピソードで知られているあのトマスです。他の弟子たちもそれぞれ個性をもち、こだわりもあり、得意なこと、苦手なこと、好きなこと、嫌いなことなど各人各様であったはずです。しかし彼らに共通していたことがあります。それは例外なく、イエスと出会って自分の居場所、心の居場所を見つけた者たちであったということです。イエスに出会った時、正面から向き合って目を見つめながら自分に語りかけてくるイエスを彼らは体験したのだと思うのです。

◆ しかし弟子たちにとってそれは地上に生きるという時点までの居場所でした。人は地上で人生を刻むことを終える時をいつか迎えます。そのことは誰もが知っています。けれどその先にも自分の居場所はあるのか、その不確かさが地上に生きる私たちの一番深い根っこのところに不安として宿っています。ですから死が見える形で自分に現れ始めて死と向き合わされる時、あるいは自分の身近な人に死のときが現実として訪れるとき、人の心は騒ぐのです。

◆ 未来を見通せない不安、死の先にも居場所はあるのか、そのことを確信できない不安を語るトマスにイエスは答えます。「わたしは道であり、真理であり、命である」。今あなたが見ているわたしの生き方こそ、たどるべき道、いのちをもたらすものなのだとイエスはいうのです。人間にとって神を見ることはできません。その声を聞くこともできません。だから不安になるのです。その神をどうしたら確認し、確信し、受け入れることができるのか。人は具体的な目の前に示されるするしるしを見せてもらわなければ、見えないものを本当に受け入れることができない面を持っています。人はしるしを求めます。私たちが信じて生きるのは、今信仰の道を歩んでいるのは、神を受け入れて、イエスを受け止めて生きている人の生き様と出会うことができているからです。そのような具体的な形を通して、確かに神さまは生きておられる、イエスは今の私に働きかけていてくださる。あの人はあのように生きているではないか。そのように確認することができる場が与えられているから、自分の居場所があると確認することができるのだと思います。

◆ イエスは、そして神さまは、「助けて」と心のどこかで叫んでいる私たちの叫びを正面から聞いていてくださる。だから「心を騒がせるな。あなたのために場所を用意しにいく。場所はある。そして場所を用意したらまた戻ってくる。あなたに場所があるよと伝えるために戻ってくる」とイエスが不安に揺れる弟子たちに語りました。神のもとに私たちの居場所がちゃんと用意されているということを、イエスは今も私たちに語り続けておられます。

2017年11月19日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝 2017年11月19日(日)午前10時30分
降誕前第6主日
学校法人同志社創立142年記念礼拝
説 教:「愛を生きるということ ー葛藤と喜びとー」
神学部教授 村上みか先生
聖 書:マタイによる福音書10章34-39節
招 詞:出エジプト記6章6-7節
交読詩編:23
讃美歌:28,7(1,3,5番),483,510,91(1番)

○礼拝場所: 神学館礼拝堂(3階)
○こどもの教会グループ活動: G31,G地下1
○聖歌隊礼拝前練習: G32
○駐車場: 啓明館/光塩館前駐車場

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