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2017年10月15日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年10月15日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第20主日
説 教:「すべては旅の途上」
牧師 望月修治
聖 書:ヘブライ人への手紙 11章17-22節・29-31節
招 詞:マタイによる福音書21章21-22節
交読詩編 :31;22-25
讃美歌:29、211、535、355、91(1番)

2017年10月8日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.10.8 創世記27.18-29   「私たちが与えられているもの」   吉居美緒   

◆ 私は与えられてばかりの人生を歩んでいるように思います。いつも誰かが私に気をかけてくれている、そのような人生を歩んできたように思います。その支えは家族によるものでもありますし、友人によるものでもあります。また私に関わってくださる方々によるもの、あるいは、きっと私の知らない誰かによるものでもあります。きっと私が受けているもの、言い換えると、私に与えられているものは、神が私に与えてくださるものや、神が誰かを遣わして私に与えられるものだと思います。とにかく、多くのものを与えられて生きているのだと日々感じます。では、その代わりとして、私が与えている、言い換えると、私が捧げているものとは、一体何だろうと考えます。私の奉仕、例えば、神に対してですと、24時間365日とは言い切れませんが、可能な限り神の前に立ち、心を向けて生きようとしています。周りの人に対しては、出来れば色々なことに気付き、親切にしたい、役に立ちたいとは考えていますが、いざ実行に移し、役立てることなど、とても少ないように思います。やはり、どれだけ考えても、私の神への奉仕、あるいは、隣人への奉仕が実に小さなものであるいかということばかりが判明していきます。

◆ エサウとヤコブは双子でした。聖書にはエサウとヤコブの名前について、「先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったのでエサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。(Gen.25:25-26)」と説明されています。そしてエサウとヤコブは、成長し、「エサウは巧みな狩人で野の人(Gen.25:27)」となり、そして、「ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常(Gen.25:27)」とする人になりました。両親のイサクとリベカが、エサウとヤコブそれぞれにできる限り等しく愛を与えていたのならば良かったのですが、残念ながらイサクは長男のエサウを愛し、リベカは弟のヤコブを愛していました。

◆ 年月は進みました。イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきました。そこで、イサクは兄エサウを呼び出し、神の祝福をエサウに与えるということを伝え、狩りの獲物でイサクの好物の料理を作って持ってくるように言いました。それを食べて、神の祝福を与えることを約束したのです。これを聞いていたリベカは、ヤコブに対して、エサウに成りすまして神の祝福を受けるように言いました。ヤコブは、毛深い兄とは対照的に滑らかなヤコブの肌に触れるとイサクを騙したことが分かり、祝福どころか、反対に呪いを受けるのではないかと恐れました。そこでリベカは、その呪いはリベカ自身が身代わりとなって受けると言いました。ヤコブは、エサウに成りすまして神の祝福を受けるという計画を実行することに決めました。

◆ 本日の聖書箇所にお話を移します。ヤコブはイサクのもとへ行き、「わたしのお父さん(Gen.27:18)」と呼びかけました。ヤコブは、「長男のエサウです。お父さんの言われたとおりにしてきました。さあ、どうぞ起きて、座ってわたしの獲物を召し上がり、お父さん自身の祝福をわたしに与えてください。(Gen.27:19)」と言いました。そこでイサクは、獲物を早く得たことに驚きます。そして、イサクのもとにやってきた人物が、本当にエサウなのかどうかを確かめるために、近寄りなさいという指示を出しました。ヤコブは仔山羊の毛皮を腕や首に巻いてエサウの毛深さを演出していましたから、イサクはヤコブの腕を触ったときには、毛深いエサウの腕だと認識しました。しかし、声までは隠すことができていなかったようで、声はヤコブの声だとイサクは言いました。イサクはおそらく少しは疑いの気持ちがあったでしょうか。しかし、そのまま最終確認として、「お前は本当にわたしの子エサウなのだな。(Gen.27:24)」と問いかけ、それに対してヤコブは、「もちろんです(Gen.27:24)」と答えました。イサクはヤコブが捧げた獲物の料理を食べ、ぶどう酒を飲み、それから、ヤコブの口づけを求めました。「ああ、わたしの子の香りは 主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が 天の露と地の産み出す豊かなもの 穀物とぶどう酒を お前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え 多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり 母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ お前を祝福する者は 祝福されるように。(Gen.27:27-29)」という神の祝福を与えました。

◆ 本日の聖書箇所には、いくつかの問題があるように思います。まず、イサクがエサウを愛し、リベカがヤコブを愛していたということです。もしもイサクとリベカ両者がそれぞれエサウとヤコブをできる限り等しく愛していたのなら、ヤコブが神の祝福を騙し取るというような問題は結果的に起こらなかったのではないかと思います。続いて、リベカの勧めがあったとはいえ、ヤコブが神の祝福を得るために嘘をついたということです。この出来事はイサクとエサウをひどく悲しませることになりました。またこの出来事が原因となって、一時的であったかもしれませんが家族の溝がより一層深まったことでしょう。最後に、祝福を与える際にイサクが躊躇しながらもその祝福行為を完了させてしまったことです。もし、イサクが明日に延期したり、第3者を呼んだりと、何らかの対応を採っていたら、ヤコブに祝福を与えることになっていなかったかもしれません。

◆ では、この様々な問題を含んでいる本日の聖書箇所から私たちは何を読み取るのか。それは、神の祝福が、イサクの好物の料理と神の祝福を与えられたいという希望との交換によって、ヤコブに与えられたということではないでしょうか。ヤコブは神の祝福という無限の価値を持つものを与えられました。一方ヤコブは捧げたものは、イサクの好物の料理と神の祝福を与えられたいという希望という限りのある小さなものであったと考えられます。ヤコブが与えられたものと捧げたものの大きさの違いに、この聖書箇所のメッセージが隠れているのではないでしょうか。神の祝福を受ける権利を持たないヤコブが、ごく僅かな捧げ物を捧げ、その代わりとして大きな神の祝福を与えられました。等しい価値同士の交換ではありません。これは不等価な交換であったのです。

◆ イエスが救い主としてこの世に送られてきたことも、1つの不等価な交換だと考えられます。この世に生きる人間の罪を贖うために、イエス・キリストが与えられました。この世に与えられたイエス・キリストは十字架に掛けられて死に、葬られ、その後に復活を遂げました。私たちは、イエス・キリストの死と復活を信じることで赦されるという大きな愛を神から受けています。では果たしてこの愛の受けてである私たちの、神に対する信仰と行いはどれほどのものなのでしょうか。神は、私たち人間と不等価な交換をしてくださっているのだと思います。

◆ さて冒頭では、私が捧げているものがいかに小さく、また少なく、一方私が与えられているものがいかに大きく、また多いのかというお話しをしました。私は周りの人々に不等価な交換をしてもらい、多くのものを受けているのだと思います。いつか私も不等価な交換をして、ひたすらに、どうして私ばかりが、と考えるほどに与える日が来るのでしょうか。どうかそのような時に、神が人間に対して多くのものを与えてくださっているように、神が私を遣わして、そうするように導いてくださっているのだと喜ぶことができるようにと願います。多くの人間が神との不等価な交換と周囲の人との不等価な交換の中で生きていると思います。神に与えられたその豊かな環境の中で、与えられることの喜び、また与えることの喜びを感じることができるようにと願います。

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