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2017年8月13日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.8.13  使徒言行録9:26-31「使徒の道への同伴者」    望月修治       

◆ 先週水曜日8月9日は72回目の長崎原爆の日でした。72年前の夏、広島に続いて長崎にも原子爆弾が投下されました。7万4千人余の命が失われました。毎年夏に、原爆朗読劇「夏の雲は忘れない 1945・ヒロシマ・ナガサキ」が全国を巡演しています。被爆した母と子の手記、原爆で母を失った子の悲しみ、子を失った母の悲しみを綴った手記をベテラン女優が朗読する舞台です。

◆ 朗読する女優の中に山田昌さんがおられます。今年87歳、出演者の中で最年長です。昨年の大河ドラマ「真田丸」に秀吉の母・なか役で出演しておられました。山田さんは戦時中、学徒動員で工場へ行っていた経験があり、自分には語り継いでいく責任があると思い、この公演に参加してきました。しかし数年前、山田さんは公演の旅を重ねる中で、公演会場の大きさが気になりだしました。自分が年をとってきて、声は出ていると思っているが、実は出なくなってしまっているのではないか、という不安を感じたからです。自分はこの舞台をいつまで続けていけるのだろうか、そんな揺らぎを覚えながら、その年の九州各地の公演の最後となる大分県佐伯市にやってきました。佐伯市での公演は2回目で、この朗読劇を是非こどもたちにも見せたいと願う母親たちが中心になって、会場を押さえ、チラシを配り、受付も自分たちで担当しました。中学生や高校生もボランティアで手伝いました。

◆ 公演が終わった後、手伝った母親たちや高校生たちが山田さんたちを迎えました。一人の高校生が話し始めました。彼は手に持ったタオルで何度も涙をぬぐいながらこう語りました。「本当に戦争を直接まったく知らない僕たちのような若い世代、まだまだ現代の平和というぬるま湯につかっている若い世代ですけれども、どう説明していいのか分からない気持ちにおそわれました。必ず知らなければならないことだと思うんです。知らなければならないことであって、また絶対に繰り返してはならないことだと思うんです。この平和を維持し、または保っていくことに僕たちの世代が努力していくことが大切だと分からされた気がしました。本当に有り難うございました。」 山田昌さんはこう語りました。「私は80歳をすぎ、どんどん老眼も進んで、舞台の照明も暗いので歩くのもおぼつかなくて、だいぶ弱気になってきていたのですけれども、今の高校生の感想を聞きまして、やっぱり記憶として残して行かなければならない。私は学徒動員で工場に行っていた経験があるので、これからも続けて行くべきだと感じました。本当に勇気づけられた思いです。」 山田さんの目にも涙がいっぱい浮かんでいました。

◆ 人の思い、人の生き方が変わるとき、そこには深い出会いがあります。人は一人で変わることは出来ません。人の思いや生き方を変える力は、さまざまな出会いの出来事を通して、外から訪れます。今日読んでいます使徒言行録9章には、正反対の立場に立つ二人の人間の物語が記されている、と思わず錯覚しそうになる程に、生き方が激変した一人の人物の物語が記されています。彼の名はサウロです。サウロとはパウロのことです。13:9に「パウロとも呼ばれていたサウロ」と紹介されています。サウロはユダヤ名で、パウロはギリシア名です。いうまでもなく彼は、キリスト教徒迫害のためダマスコに向かっていた時に、復活のイエスに出会い回心して、イエスの教え、生き方を福音として異邦人に伝えていった伝道者パウロ、使徒パウロその人です。

◆ まず9:1-2です。次のように記されています。「さて、サウロはなおも弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。」キリスト者たちにとってサウロは恐ろしい男でした。次々と教会を襲い、キリスト者たちを片っ端から縛り上げ、連行し、牢に入れていったからです。

◆ ところがです。今度は9:20です。その同じ人物が、ダマスコのあちこちの会堂で、イエスのことを「この人こそ神の子である」と宣べ伝えたというのです。さらに今日の箇所の26節によれば、サウロすなわちパウロはエルサレムに着くと、弟子の仲間に加わろうとしたというのです。少し前までパウロは、エルサレムでキリスト者たちを次々と襲い、連行していました。落差のありすぎる変化に周りの者はついて行けずに戸惑っています。人々は驚き、また弟子たちはパウロの言葉を信じられないで逆に恐れたとあります。

◆ 戸惑う弟子たちとの仲介の役目を担ったのはバルナバという人物です。彼は地中海のキプロス島の出身で、エルサレムの教会に多額の献金をした信徒でした。バルナバは、ダマスコに向かう道でパウロに起こった出来事が、彼の生き方を激変させたのだと弟子たちに説明しました。その出来事は、9章の前半に記されていますが、パウロがダマスコという町にいるキリスト者たちを捕えるために道を急いでいた時に、突然、天から光が射して、パウロを照らし、彼は地に倒れたというのです。そして「なぜ、わたしを迫害するのか」というイエスの声を彼は聞き、起き上がって、目を開けたけれど、何も見えなくなっていました。目が見えていたのに見えなくなるという状況の激変が起こる。そのことが示すのは、今までの生き方、考え方がそのまま続くのではなく、1度ストップさせられたということではないかと思います。パウロのこれまでの生き方がストップする。そのことを象徴的に示すのは、8節に記されていますが、パウロが人々に手を引いてもらってダマスコに向かったということです。そして今日の箇所の冒頭,26節に「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとした」ということです。天からの光に照らされ、目が見えなくなったという表現で語られるパウロの体験は、彼自身の中の弱さ、手を引いてもらわなければダマスコに行くことが出来ない自分と向き合うことで深く気づかされたことがあったという事実を示します。

◆ 困難を経験しなければ分からないことが、人生にはあります。悲しみは何か、苦しみが何であるかを勉強して知ることはできません。それはどうしても一度は自分の心に感じてみなくてはなりません。自分の至らなかったことをまっすぐ見ることは勇気がいります。でもその時に初めて「分かる」ことがある。そして何かが「分かる」ということは、変わるということです。何であれ、「分かった」と思ったとき、同時に私たちは、自分のどこが変わったのかを考えなくてはなりません。自分の至らないところを指摘されると思わず、「分かった、分かった」と口走ります。でも、本当は何も分かっていないことに気がついてもいるのです。

◆ しかし一方で、分かったと感じる前に、自分が変わったことに気づくこともあります。変わった自分を感じることで、自分が「分かっていた」ことを知るという経験が誰にもあるのではないでしょうか。この気づきは、人に大きな転機をもたらします。使徒言行録9章の冒頭に記されているパウロの体験、ダマスコに向かっていた途上で「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかけるイエスの声を聞いたという体験も、そのような出来事として起こったのではないかと思うのです。この体験を通して「分かった」ことを、後に彼は「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリントⅡ11:30,12:9)という表現で語りました。自分のうちに神の力が働く、そのことが大きな転機をもたらす。彼に対する恐れが支配していたエルサレムで、弟子の仲間に加わろうとしたパウロの物語は、そのことを証しするのです。

2017年8月27日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年8月27日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第13主日
説 教:「福音の働きーラオスの教会」
神学部教授 原 誠
聖 書:ローマの信徒への手紙 12章9-21節
招 詞:マタイによる福音書12章47-50節
交読詩編 :128
讃美歌:28、352、120、456、91(1番)

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