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2017年8月6日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.8.6 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5:11-6:2「神が取り替えたもの」 望月修治    

◆ 「その戦争は、1941年(昭和16年)12月8日にはじまり、1945年(昭和20年)8月15日に終わりました。それは言語に絶する暮らしでした。その言語に絶する明け暮れのなかに、人たちは、体力と精神力のぎりぎりまでもちこたえて、やっと生きてきました。親を失い、兄弟を失い、夫を失い、子を失い、大事な人を失い、そして青春を失い、それでも生きてきました。家を焼かれ、財産を焼かれ、夜も、朝も、日なかも、飢えながら、生きてきました。しかも、こうした思い出は一片の灰のように、人たちの心の底深くに沈んでしまって、どこにも残っていません。いつでも戦争の記録というものは、そういうものなのです。戦争の経過や、それを指導した人たちや、大きな戦闘については、ずいぶん昔のことでも、詳しく正確な記録が残されています。しかし、その戦争のあいだ、ただ黙々と歯を食いしばって生きてきた人たちが、なにを食べ、なにを着、どんなふうに暮らしてきたか、どんなふうに死んでいったのか、どんなふうに生きのびてきたか、それについての、具体的なことは、どの時代の、どこの戦争でもほとんど、残されていません。あの忌まわしくて空しかった戦争の頃の暮らしの記録を、私たちは残したいのです。あの頃まだ生まれていなかった人たちも、戦争を知ってもらいたくて、貧しい一冊を残したいのです。もう二度と戦争をしない世の中にしていくために、もう二度とだまされないように。どんな短い文章でもかまいません。ペンをとり、私たちのもとへお届け下さい。」
「暮しの手帖」を創刊した花森安治は1968年に「戦争中の暮らしの記録」を届けてほしいと読者に呼びかけました。1736篇の応募がありました。その年の8月、「暮らしの手帖」96号は、一冊全部「戦争中の暮らしの記録」だけを収録した特集号として発刊されました。

◆ その冒頭に「戦場」と題された長い詩が掲載されています。
「<戦場>はいつでも海の向こうにあった。海の向こうのずっと遠い、手の届かないところにあった。学校で習った地図を広げてみても、心の中の<戦場>はいつでも、それよりもっと遠くの海の向こうにあった。ここは<戦場>ではなかった。海の向こうの、心のなかの<戦場>では、泥水と 疲労と 炎天と 飢餓と、死と、その中を砲弾が、銃弾が、爆弾がつんざき、唸り、炸裂していた。<戦場>と、ここの間に海があった。兵隊たちは死ななければ、その<海>をこえて、ここには帰ってこられなかった。 今その<海>を引き裂いて数百、数千の爆撃機がこの上空に殺到している。
 焼夷弾である。焼夷弾が投下されている。時間にしておそらく、数十秒、数百秒、焼夷弾が、想像をこえた量がいま、ここの上空から投下されているのだ。それは空中で一度炸裂し、一発の焼夷弾は72発の焼夷筒に分裂し、凄まじい光箭(こうせん)となって地上にたたきこまれる。それは凄烈不可思議な光跡を画いて、後から後から地上に突き刺さってゆく。
 地上、そこは<戦場>ではなかった。この凄まじい焼夷弾攻撃に晒されているこの瞬間も、おそらくここが<戦場>だとは思っていなかった。爆弾は恐ろしいが、焼夷弾は怖くないと教えられていた。焼夷弾はたたけば消える、必ず消せると教えられていた。みんながその通りにした。気がついた時は、逃げ道はなかった。まわり全部が千度を超える高熱の焰であった。しかも誰一人、いま<戦場>で死んでゆくのだとは思わないで死んでいった。
 その夜に限って空襲警報が鳴らなかった。敵が第1弾を投下して7分も経って、空襲警報が鳴ったとき、東京の下町はもうまわりがぐるっと燃え上がっていた。まず、まわりを焼いて脱出口をふさいで、それからその中を碁盤目に一つずつ焼いていった。1平方メートル当たり、少なくとも3発以上という焼夷弾。3月10日午前零時8分から2時37分まで149分間に死者8万8千7百93名。負傷者11万3千62名。ここを単に<焼け跡>と呼んでよいのか。ここで死に、ここで傷つき、家を焼かれた人たちを、ただ<罹災者>で片付けてよいのか。みんなの町が<戦場>だった。凄惨苛烈な<戦場>だった。
 お父さん、少年がそう叫んで号泣した。あちらこちらから嗚咽の声が洩れた。戦争の終わった日、8月15日、海の向こうの<戦場>で死んだ父の、夫の、息子の、兄弟の、その死が何の意味もなかった、その思いが胸のうちをかきむしり、号泣となって噴き上げた。しかしここの<戦場>で死んでいった人たち、その死についてはどこに向かって泣けばよいのか。その日、日本列島は晴れであった。」

◆ 今日は「平和聖日」です。そして72回目の広島原爆の日です。9日には長崎原爆の日が巡ってきます。イエスは「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)と語っています。「平和を実現する」務めが私たちに託され続けています。その出発点はどこにあるのか。戦争の時代を生きてきた者はその体験を思い起こし確かめ直すこと、そして戦後の時代に生まれ育ち歩んできた者は72年前に敗戦を迎えた戦争で何が行われたのか。そもそもどうしてあの戦争は起こったのか、そこで人はどう生きたのか、どのように死んだのか、どのように苦しみ、どのように悲しみ、どのように傷んだのかを知ることから考え始めることにあると思うのです。観念ではなく体験、事実の証言から歴史を掘り下げ、過去を知ることが、「平和を実現する」務めとはどうすることかを教えるのだと思うのです。

◆ コリントの信徒への手紙Ⅱの5章で、パウロは「和解」という言葉を5回も語っています。新約聖書では「和解」という言葉は、パウロの手紙の中にしか出てこないのです。しかしキリストの福音、イエス・キリストを通して明らかにされた神の思い、御心を表す重要な言葉です。パウロは「和解」について18節で次のよう語っています。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」 少し噛み砕いて言いますとこういうことです。人間は造り主である神の意志に反して、身勝手に的を外れた生き方をしている。そのように生きることを聖書は「罪」と呼ぶのですが、罪を犯して神から離れている人間に、神の側から手を差し伸べて、キリストを遣わし、その十字架の死をもって和解を実現したのだということ。それが「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させた」ということです。「和解する」とは「取り替える」「交換する」という意味を持っています。神は「人間の罪」を「許しという愛」と交換してくださった、取り替えてくださったということです。そのことを人々に伝え、知らせるのが使徒の役目であることをパウロは深く自覚していました。それを「和解のために奉仕する任務をわたしたちに与えた」と表現したのです。

◆ イエスは語りました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。」(ヨハネ福音書14章27節) 人の世は武力で守る平和論を盾に戦いを繰り返してきました。しかしイエスが示した平和は、相手を打ちのめすことで守る平和ではありません。逆に自らが十字架に死ぬことさえも引き受けることによって他者への執り成しと和解を生み出そうとする道です。過去の事実を知り、過去の過ちを素直に受け止め、そしてそれを語り継ぐことに誠実でありたいと思います。それが日本という国に生きている私たちにとっての「和解のために奉仕する任務」ではないのかと思います。イエスが示した平和への道を一緒に歩むお互いであり続けたいと強く思う8月です。

2017年8月20日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年8月20日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第12主日
説 教:「バラバラでいっしょ」
牧師 平松譲二
聖 書:使徒言行録2章42-47節
招 詞:イザヤ書12章1-3節
交読詩編 :61
讃美歌:28、120、390、409、91(1番)

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