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2017年7月9日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.7.9 使徒言行録4:32-37 「神から与えられたものなのだから」  望月修治   

◆ キリスト教の教会はイエスの死後、イエスの弟子であった人たちの働きの中から生まれていきました。誕生初期から紀元1世紀から2世紀の教会を私たちは初代教会と呼んでいます。教会の始まりですから、そこには人々の揺るがない信仰と厚い祈りがあったと語りうるのであれば、どんなにふさわしい事かと思います。しかし事実はそうではありません。教会の始まりにあったのは人間の裏切りでした。イエスが捕らえられ、十字架に架けられて行ったとき、弟子たちは誰一人、イエスと一緒にはいませんでした。恐怖に駆られ、皆イエスを見捨てて逃げ去りました。使徒言行録は弟子たちの働きによってイエスの福音が世界に伝えられていった事の記録ではありますが、それは彼らが汗と血を流して頑張り、信仰に燃え、努力と忍耐を重ねてイエス・キリストのことを伝えたのだという人間の側の手柄話ではありません。教会の歴史は人間の努力や頑張りや力量を超えた不思議な力が彼らを押し出すようにして、用い働かせた歴史であり、記録であることを、思い起こさねばなりません。信仰の世界において、人は手柄に酔いやすく、自慢話に陥りやすいのです。あるいは同じ事の裏返しとして、自らの境遇の悪さをいたずらに自分の信仰が足らぬからだ、祈りが足らぬせいだと言って嘆きすぎます。自慢話にしろ、嘆きすぎることにしろ、いずれも自分の力への評価が中心にきています。それは神の働きはあるかも知れないけれど、別にどうということはないと退けているということにおいては同じであり、突き詰めて言えば裏切りです。イエスを主であると告白していながら、実はそれほど信頼してはいないという意味で、裏切りです。

◆ 使徒言行録はイエスの弟子たちが使徒としてイエスの教えを福音として伝えていく姿、そして教会が形成されていく歩みを物語ります。その中に、初代教会を形成していた人たちの生活について、大変興味深いことが書かれています。2章43-47節と本日読んでいる4章32節以下です。2章44-45節にはこう記されています。「信者たちは皆一つになって、すべてのものを共有し、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」 今日の箇所にも同様のことが記されています。32節です。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」さらに34-35節にはこうあります。「信者の中には、一人も貧しい者がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元におき、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」

◆ 初代教会では、個人で財産を所有せず、個人のものはすべて教会に捧げて、みんなで共同生活をするような体制を作っていたというのです。「信者の中には一人も貧しい者がいなかった」とルカは語っているのですが、初代教会のごくごく初期には、このようなことがおそらく行われていたのだろうと考えらえます。そしてこれは旧約聖書の申命記に記されていることが実際のこととなったとルカは捉えたのだと思います。申命記15:4には次のように記されています。「あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなる。」おそらくルカはこの申命記の言葉を念頭に置きながら、初代教会が生まれていった時に、そこに集まった信者の人たちが現出させた生活を理想的な規範、手本として示したのです。

◆ そしてこのような初代教会のことをルカが使徒言行録に記す際に、用いているキーワードがあります。「一つ」ということです。具体的にその箇所を挙げてみます。1:15「百二十人ほどの人々が一つになっていた。」、2:1「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」、2:44「信者たちは皆一つになって」、2:47「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」、そして今日の箇所4:32「信じた人々の群れは心も思いも一つにし」、さらに5:12「一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた」と記されています。このように「一つ」ということが繰り返し語られており、原初代教会のことを知る上でのキーワードになっています。

◆ 一つになっていた人たちとはどういう人たちだったのでしょうか。2:5に「エルサレムに天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人が住んでいた」とあります。多様な人々が、一つになっているということであり、単に人間の兄弟姉妹愛のようなあたたかい心で共感することではないのです。そうした人間どうしの思いやりといったようなつながり方ではなく、2:43の表現を借りるならば「多くの不思議な業としるし」を生み出すつながりなのです。だとすれば、その人たち自身の力というだけではなく、その人を押し出して行く力、あるいは押し出されて行く力がそこに働いていたことによって「一つ」だということです。そしてその具体的なあらわれとして語られているのが「すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」ということであり、また「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」ということです。本来他人同士である人々が、その財産を共有するということは、何か特別なことが彼らの間に起こったということの具体的なしるしです。

◆ しかしそうであったとしても、「心も思いも一つにする」とか「持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」といったことは、言葉で言うのは簡単ですが、人間にとってそのようなことは普通にはありえないことです。「心も思いも一つにして」とは、初代教会の理想的な一致、理想的な姿を示しています。では結局、理想は理想、しかし現実は違うということになって終わりということなのでしょうか。2章43節以下の記事と4章の32節以下の記事の書き方には共通していることがあります。信じる者たちの共同の生活についての報告に先立って、双方とも聖霊に満たされるということが報告されているのです。2章では、ペトロが人々に「洗礼を受けて罪を赦してもらいなさい」と勧め「そうすれば聖霊を受ける」と語っています。また4章では.「信じた人たちが集まり、祈り終えると、その場所が揺れ動いて、皆が聖霊に満たされた」とあります。そして聖霊つまり神の働きを受けた人たちが「心も思いも一つにし」たという順番で述べられているのです。この順番はとても大切な点です。そして注意しておかねがばならないことです。すなわち、イエスの弟子たちは、財産を共有することを理想的なあり方だと考えて、そのように実践したということではないということです。「すべての物を共有する」というあり方を教会の目指すべき目標と定めて努力したということとは全く違うのです。そうではなくて、33節にありますように「主イエスの復活を証し」するということに懸命に取り組んでいたら、いつのまにか「すべての物を共有する」ということになったのです。

◆ 使徒言行録に語られている初代の教会の信者の人たちが一つになっていると語られていることの具体的な内容は、イエスの教えを喜ばしい知らせとしていろいろな人に伝えたいという1点においてみんなが一つになっているということだと思います。それが初代の教会の人々が現出させた姿であったのです。そのことをルカは、教会の原点、あるべき姿、忘れてはならないあり方として語っているのです。わたしたちは、いろいろな想い、いろいろな価値観を持っているけれど、イエスの教えを伝えるという1点において教会は一つになっていこうとすることを心に留めながら歩むべく、神に立てられている共同体なのだと思っています。

2017年7月23日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年7月23日(日)午前10時30分 聖霊降臨節第8主日
説 教:「悪霊たちの反論」
牧師 望月修治
聖 書:使徒言行録19章13-20節
招 詞:エレミヤ書7章2-3節
交読詩編:119;105-112
讃美歌:25 、83、462、460 、91(1)

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