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2017年7月2日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.7.2  コリントの信徒への手紙Ⅱ 8:1-15 「神と人との貧窮問答」 望月修治  

◆ 毎週の礼拝で、私たちは献金を捧げます。礼拝献金、月定献金、いろいろな特別献金が捧げられます。教会がこの世にあって、使命を果たしていくためには、経済的な基盤が必要です。ただし、献金が教会の必要経費を支えるためだけならば、月定(維持)献金だけでもよいはずです。毎週の礼拝で席上献金が月定献金とは別に献げられるのは、なぜなのでしょう。

◆ 古代から教会の礼拝では、集まった人たちが捧げものをしてきました。礼拝での献げものは神の招き、呼びかけに対する応答であり、信仰的な行為だと考えられたからです。献げものは、生活の形態によって異なります。農耕生活が基本であった時代には、収穫した農作物の一部が持ち寄られて、礼拝の時に献げられました。この献げものが「献金」、すなわちお金を捧げるという形で行われることが常のこととなるのは、16世紀の宗教改革以降、貨幣経済の時代になってからです。それから、古代の教会では、礼拝で献げものをするのは、信仰を告白した者にだけ許された行為でした。信徒はパンやぶどう酒、その他の食べ物などを持ち寄って、神にささげ、その一部を取り分けて聖餐を守り、共に食事をしました。残ったものは、その席に集まることのできなかった人々や、困窮している人たち、獄に捕らえられている人たちなどに届けました。人々は自分の労働によって得られた実りを持ち寄って献げ、それを分かち合うことによって神との交わり、自分たち同士の交わりを祝いました。それが聖餐です。したがって、礼拝での捧げものは、本来、聖餐の一部であり、その準備の部分を構成していたのです。それが毎週の礼拝での席上献金の源流です。

◆ コリントの信徒への手紙も、そのような時代にパウロによって書かれた手紙の一つです。コリントの信徒への手紙Ⅱの8章1節以下にはマケドニアの諸教会の人々がエルサレム教会を支援するための献金を捧げたことが記されています。マケドニアは小アジアから地中海を渡ってヨーロッパに属する位置にあります。パウロは第2回目の伝道旅行でこのマケドニアを訪れました。その経緯は使徒言行録16章、17章に詳しく記されています。その記録によりますと、マケドニアで待っていたのは命の危険にも晒されるような困難の連続でした。ユダヤ人たちの妬みと暴動に巻き込まれ、訴えられて裁判にかけられ投獄され、鞭打ちの刑を受けました。マケドニア州での伝道活動は困難を極めたのです。2節に「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていた」とありますが、パウロがマケドニアを去った後も、そこに設立された教会が嫌がらせや圧迫を受ける状態から解放されていなかったのです。そのような困難な状態に直面していたマケドニア州の教会の人たちが「満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」とパウロは書いています。これは、マケドニア教会の人たちがエルサレムの教会への献金を捧げてくれたことを指しています。小アジアやギリシアの教会からエルサレム教会に献金を送ることで、双方のつながりを強めたいと願ったのです。

◆ パウロは8章で献金について説明するにあたって、献金を「慈善の業」とか「恵み」「奉仕」「愛の証し」などと言い換えながら、献金することの意味を説明しています。ユダヤとギリシアではお金の価値は異なります。また同じギリシア文化圏でもマケドニア州の教会とコリントの教会とでは決して無視できない程の貧富の差がありました。そのような経済力の格差を承知した上で、しかし貧しい地域の人たちにも、豊かな地域に住む人たちにも、献金に協力してほしいと訴えるパウロは、献金は金額ではなくて心のありようだと説きます。お金は人を喜ばすこともありますが、逆に傷つけることもあります。お金が恥をもたらすこともあります。パウロはそのことを十分に承知していたからこそ、各地域の状況に配慮しながら、献金を呼びかけていきました。パウロは2節後半で、マケドニアの教会の人たちの献金について、「その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」と語っています。マケドニアの教会の人たちのことを、献金を献げる者の手本としつつ、コリントの教会の人たちに献金の用意をちゃんとしておいてほしいと要請をしています。

◆ パウロが異邦人教会にエルサレム教会への献金をしてほしいと願う理由はもう一つありました。異邦人教会に対して自らを閉ざしがちのエルサレム教会が、その姿勢を変えて関心を向けるようになるために、有効な手立てとなり得たからです。

◆ 以上の二つは表に現れている献金の理由です。しかしマケドニアの諸教会がエルサレム教会への捧げものをしたことを記す今日の箇所には、もっと深い意味が込められています。2節の後半に「その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て」と記されています。極度の貧しさとあるのは、マケドニアの教会の経済的な現実を表しています。設立されてまだ年数の経っていない教会の経済的な基盤が弱く、献金ということなら、マケドニアの教会は捧げる立場ではなく、むしろ献金を受けて支援をしてもらう立場にある教会です。しかし「彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと願い出た」のだとパウロは書いています。マケドニア教会の人たちのこの行動にパウロは心を深く打たれていることが今日の箇所から分かります。人間は豊かであるから献金をするとは限りません。むしろ貧しさを知っている人が困難の中にある人たちへの支援に協力するのです。

◆ 9章でも献金についてパウロは語っているのですが、そこでは献金のことを「奉仕の働き」(12節)、「奉仕の業」(13節)と表現しています。奉仕(レイトルギア)は本来「祭り」「礼拝」を意味していましたから、パウロは献金という行為が神の礼拝にあずかることと同じだと見ていたことが分かります。一口に献金と言いますけれども、それは例えば貧しい人、支援を必要としているところを援助するということだけではなく、神から与えられている恵みや支えに対するお返し、という意味が込められていました。献金をするときに思い起こさなければならないことがあります。神の恵みとして私たちに与えられている最も大きな贈り物はイエス・キリストだということです。そのことを9節でパウロはこう記しています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」「主イエス・キリストの恵み」の中身は何かといえば「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」ということだとパウロは語っています。

◆ 豊かさの意味を考えます。豊かだから与えるのではなく、少ししか持っていなくても、でもそれを分かち合うことで相手が喜んでくれる、その嬉しさを与えられることの豊かさを神はイエスを通して示したのです。ただ物を蓄えるだけ、自分のためだけの蓄え、出口のない蓄えは人の心を豊かにはしてくれません。差し出すこと、捧げることを伴ってこそ自分が持っているものは意味をもつのです。献金の時に「この献げものを主の御用のためにお使い下さい」という意味のことが祈られますが、用いられるのはお金だけの意味ではありません。私たち自身が「主の御用」神の働きに用いられて1週間を歩むことができるようにという祈りです。献金は礼金でもお賽銭でもありません。また会費やカンパでもありません。私たち自身が神の働きに用いられるようにという献身のしるしであり、祈りなのです。

2017年7月16日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年7月16日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第7主日
説 教:「怒らず、争わず」
牧師 高田 太
聖 書:テモテへの手紙Ⅰ 2章1-8節
招 詞:マタイによる福音書7章7-8節
交読詩編:143;1-6
讃美歌:28 、4、500 、493 、91(1)

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