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2017年6月11日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2017.6.11 エフェソの信徒への手紙 1:3-14        「聖霊の証印」(髙田)               
◆ アドヴェントから始まった「主の半年」はペンテコステで区切りを迎え、聖霊降臨節、すなわち「教会の半年」が始まる。聖霊降臨節への移行の時であるペンテコステ翌週は、1334年にローマ教皇ヨハネ22世により制定されて以来、三位一体主日とされている。イエス・キリストは父である神の本質について教えられ、復活によりご自身が神の子であることを示された。キリストが地上を去られた後、父なる神とキリストが、後の地を導くために聖霊を与えられた。聖霊はペンテコステにいたって、教会を生み出し、その歩みを導く力として示される。これにより、三位一体という神の本質が示される。

◆ 父、子、聖霊が一人の神であるという三位一体説は、長く複雑な歴史によって立てられた教理であり、教義学においても最も難解な主題の一つである。わたしたちは三位一体説や教会暦のような、2000年におよぶ教会の歴史の中で生み出されてきた文化を遺産として受け継ぎ今を歩んでいるが、しかし、人間が造り出す文化や様々な工夫は、時にそれが生み出され定められた時の心、例えば礼拝をより豊かに味わおう、そのことでより豊かに一年を歩もうというその心を失って、形骸化して、逆に人の営みを束縛するものにもなる。これは問題である。形骸化したキリスト教を真実たらしめるべく、宗教改革がおこされた。それもまた、時の流れの中で形骸化したり、それに従っていさえすればよいとするドグマを生み出して、人を抑圧することもあった。

◆ 過去を確認することで形骸化してしまった現在の問題を捉え直そうとする試みは、多かれ少なかれ、そうした危険に面している。歴史がこうだから、原点がこうだから、今、こうしなくてはならない、とわたしたちは主張する。しかし、そうした圧力が人の反発を生み出すこともある。歴史や伝統がどうだろうが、そのような人を抑圧するものは排除されなくてはならない。わたしたちは自由だ、と。場合によっては「イエスご自身がそれを体現しておられるではないか」というひとことが加わる。自由を求めたはずの活動が、逆に原点回帰主義に、別の言い方をすれば原理主義に、これが生み出す別種のドグマに規定されることになることもある。

◆ このような、歴史と伝統、過去に面する人間の葛藤という実に複雑な問題を本日の箇所も示している。エフェソ書は、伝統的にはパウロが書いたものとされてきたが、現代ではパウロの死後、紀元80年から100年の間に、パウロの書いた手紙の形式を模して記されたものと考えられている。この手紙はコロサイ書と不思議な関係をもっている。ある研究者によれば、エフェソ書のほぼ半分がコロサイ書の文を真似したものであるという。双方に使われている共通の語の割合は、コロサイ書がはじめにあって、エフェソ書がこれを下敷きにして書かれたと推測させる。

◆ コロサイ書は、ユダヤ教やその伝統をどこか古いもの、もはや無用のものとして描いているところがある。対してエフェソ書は、ユダヤ教があってこそのキリスト教ではないかと、異邦人キリスト者といえども、キリスト教がユダヤ教の歴史や伝統の上に立っていることを無視してはいけないのだと、何より、キリストも最初のキリスト者もユダヤ人であったのだと、こう主張する。ここでも原点や歴史、伝統が問題になっている。ここで注目したいのは、「わたしたち」と「あなたがた」という語の使い方である。この文書が「わたしたち」から、後からキリスト者となった「あなたがた」に向けて書かれていることは明らかである。ここでの「わたしたち」は、天地創造の前に神によって選ばれたものであり(4節)、キリストにおいて贖われて罪を赦され(7節)、知恵と理解を与えられて秘められた計画を知らされたもの(8-9節)である。そして12節ではそれが強調されて「以前からキリストに希望を置いていたわたしたち」といわれている。この「以前から」というのが明らかに、その次13節にくる「あなたがた」との違いを表している。前者はユダヤ人、後者は異邦人である。

◆ 旧約聖書の歴史に示されるとおり、神はアブラハムを選び、そこからイスラエルの民を生み出し、彼らをエジプトから解放することでその民にご自身の存在と力とを示された。そうしてこの民に律法を与え、彼らを「祭司の王国、聖なる国民」とした。この神との契約、約束がユダヤ人にとっての全てであった。そしてその後の長い歴史の中で、ユダヤ人は他国の支配に苦しめられながらも、その中でメシア思想、キリストの思想を育んだ。神により救い主が与えられる──預言者もそのような希望を語っていた。そしてこれがイエス・キリストにおいて、その十字架と復活によって実現した。

◆ ここに至って、神の秘められた計画が明らかになったのだというのが、エフェソ書の主張である。この計画については、3章3節以下で改めて語られている。「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となる」、これがその計画である。それまではユダヤ人だけに相続が約束されていたものが、聖霊の力によって、そのOKのハンコによって異邦人にも与えられるようになる。神は「霊」によってこのことを「キリストの使徒たちや預言者たちに啓示された」(3.5)。

◆ だから、霊、聖霊とは、ここでは神のご計画を示すもの、啓示するものとして捉えられており、その神のご計画は、天地創造の前からユダヤ人を選んでいたというもので、そしてキリストにおいて、実はそこに異邦人も加えられるものだったことが明らかにされるというものである。つまり、ここで聖霊の証印というのは、異言や不思議な癒しの業といった印ではなく、それまでの神のご計画、これを示すユダヤ教の歴史、旧約聖書の歴史との関連で新たに示された神のご計画に、福音を信じる異邦人が組み入れられているということのしるしである。

◆ エフェソ書の力点は、ユダヤ人が神の約束の中心にあるということである。しかし、異邦人であるわたしたちはそこに偏狭なユダヤ主義を嗅ぎ取り、これを批判したくもなる。しかしどうだろうか、例えば、世俗のクリスマスやイースターなど、キリスト教本来の精神を失ったかに見えるそうした行事に面するなら、キリスト者としてはひとこと、その原点がなんであったかを言ってやりたい気持ちになる──エフェソ書の著者もコロサイ書に面してそんなふうに思ったのかもしれない。ここにあらわれているのは微妙で難しい問題である。確かに、歴史や伝統は忘れられたり無視されてはならない。さりとて、これに目を向けろとして現状を批判するような主張は、時に保守的、差別的になること、そんなふうに受け取られることもある。何より歴史や伝統は学ばれねばならないのである。しかし人は人から学びを強制されるのを好まない。では、どうしたらよいのだろうか。

◆ これに正しい一つの答えを与えることはできないであろう。与えられたそれぞれの状況において、伝統や歴史に批判的に目を向けつつ、立ち帰るべきところには立ち帰り、受け入れるべきは受け入れ、批判すべきは批判する、そういう複雑な決断を繰り返すほかはない。しかしそういうときに、わたしたちは自分の小さな能力や判断力を頼るのではなく、それこそエフェソ書に記されたような神のご計画を示す聖霊の働きを祈り求めねばならないはずである。その働きを受け取るため、わたしたちは洗礼において、聖霊の証印を与えられたのである。そうした聖霊の働きに耳をすましつつ「臨機応変自由自在」に歴史や伝統に取り組み、共に歩みを進める同志社教会でありたいと思う。

2017年6月25日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年6月25日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第4主日
説 教:「見えないものを語る言葉」
牧師 望月修治
聖 書:フィリピの信徒への手紙2章12-18節
招 詞:イザヤ書60章20-21節
交読詩編:67;1-6
讃美歌:28,148,392,55,91(1番)

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