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2017年6月4日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.6.4ペンテコステ礼拝  使徒言行録2:1-11「故郷へのいざない」 望月修治    

◆ 新約聖書には「聖霊」という言葉がしばしば出てきます。今日の箇所でも4節に「すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」とあります。ギリシャ語のプニューマ、ヘブライ語のルーアッハという言葉を日本語の聖書では聖霊と訳しています。プニューマを辞書で引いてみますと次のような訳語が並んで出てきます。「風、息、呼吸、生命力、心、霊、魂」プニューマが6つも7つも異なった意味を持つということから2千年前の時代の人たちの物の考え方、受け止め方が浮かび上がってきます。当時の人々は「風はどうして吹くのだろう」と考えました。古代人の考えでは、風は神の息でした。神様がご機嫌の良い時にはそよそよと優しい風が吹き、神様が怒っている時には猛烈な風、台風やハリケーンになります。ですから風と息は同じものでした。創世記の2章には、神が泥をこねて人の形を作り鼻の穴に息を吹き込むと人形は息をし始め、生きるものになったと物語られています。これが最初の人間だと創世記は記します。だから風は息であり、命なのです。風は神の息であり、神の息には物を生かす力があり、その息が鼻の穴を出入りするので動物も人間も生きていると古代の人々は考えました。息をして生きているものは心をもちます。心は物を考える力です。これもプニューマの働きですから、プニューマは心であり、魂であり、霊でもあるのです。

◆ このプニューマが特に聖霊と訳されてきましたが、これは難しい漢語です。マルコ福音書の1章にイエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことが語られていますが、「(イエスが)水の中から上がると、天が避けて、〝霊〟が鳩のように御自分に降ってくるのを、ご覧になった。」 霊が降るのを「鳩のように」と例えています。「鳩のように」という表現は、やさしく、あたたかく、よいものを形容する時に用いられます。プニューマはやさしく、あたたかく、よいもの、それが聖書の提示するイメージです。ですから「聖霊」ではなく「神の息」あるいは「神の思いを運ぶ風」と訳してみると、プニューマという言葉の意味が生き生きと感じられてくるのです。神が私たちに語りかけてくださる。神の熱い思いを運ぶその風、神の息を胸いっぱいに吸い込むと、神の熱い思いが人の中に入り込み、生きていること、生かされていることの嬉しさや喜びとなり、命を包み込み、支え、慰めるのです。

◆ プニューマは「風、息、命、魂、心、霊」という意味を区別なく併せ持ちます。聖書の民にとって、風は息であり、息は命であり、命は魂であり、心なのです。そしてそれはやさしく、あたたかなものなのです。イエスが十字架に架けられ30数年の生涯を終えたその年の五旬祭の日に、弟子たちやイエスと共に歩んだ人たちが体験したという「聖霊に満たされる」という出来事も、おそらくそのような神の息、神の思いを運ぶ風に包まれていくと強く感じた体験だったのではないかと思うのです。

◆ 五旬祭とはギリシャ語で「ペンテーコステー・ヘーメラ」(50日目の祭日)の訳語です。もともとは初夏における小麦の収穫を祝う1日の祭りのことでした。レビ記23:15-16には「あなたたちはこの(=過越の祭の)安息日の翌日から数え始め、7週間を経た翌日まで、50日を数えたなら、主に新穀(=新しく収穫した穀物)の献げ物をささげる」という規定が記されています。イエスが過越の祭が始まる直前に処刑されたこの年も五旬祭の日が巡ってきました。この日弟子たちはイエスの家族、イエスと親しかった人たちが一緒に集まっていました。その時に「聖霊に満たされる」と表現される出来事を皆が体験したというのです。その様子は「激しい風のようであった」ともいいますし、「炎のようであった」とも言われます。しかも家中に響き渡るような音を伴っていました。風と炎と音、使徒言行録にルカが書き記したペンテコステの出来事が実際にどのように起こったのかを再現することは出来ません。しかし確かに言える一つのことは、そこに圧倒的な力が働いたという事実です。神がそこに確かに働かれた、そのことのしるしとして、風があり、炎があり、音があったのです。

◆ 弟子たちに大きな変化が起こったのはこの出来事の後のことです。そして4節以下にペンテコステの出来事のもうひとつの興味を引く出来事が記されています。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」・・・・弟子たちを根底から揺るがすことが起こったということです。それは実に不思議な光景でした。「ほかの国々の言葉で語り出す」とは、イエスの出来事の証人として歩み始めたことを意味しています。ついこの間まで彼らは逃亡者でした。姿を隠し、イエスの弟子であったことを知られることを恐れていた逃亡者でした。それがこの日一変したのです。臆病であった者が勇気ある者に、うなだれていた者が顔を上げ、裏に隠れていた者が表に出てきたのです。この時から弟子たちの新しい歩みが始まりました。イエスが救い主であることを新たに確認し、生き直し始めたのです。使徒言行録では、それを弟子たちに聖霊が降っていろいろな国の言葉で話し出したという形で語っています。

◆ 私たちにとって言葉はお互いが理解し合うための手段です。けれども言葉を通して理解し合うということは永遠の課題でもあります。話している言葉が違うからよく理解できないという場合もありますが、同じ日本語を話している者どうしでも相手を理解し受け入れることはなかなか難しいのです。ペンテコステの記事は他国の言葉を話すことが出来るようになったということにポイントがあるのではなく、理解し合える関係が成立したことに重点があるのではないでしょうか。そしてそのような状態を生み出すものが、聖霊が降ることの具体的な形として記されているのです。

◆ この時まで弟子たちは家の中に閉じこもり仲間だけでつながりを持ってきましたけれども、五旬祭の日の出来事によって弟子たちに起こったのは、彼らが外の人たちと関わるという生き方です。その時言葉が通じ、その日に3000人もの仲間が出来た(2:41)というのです。弟子たちの中に起こった出来事を大きな転換点として、教会が生まれていきました。教会では自分たちにしか通用しない教会用語が使われることが少なくありません。言葉は同じ日本語でも、教会の中でしか通用しない言葉は、お互いが理解し得ない異国の言葉と同じかも知れません。

◆ しかしもっと問題なのは、わたしたちが、仲間同士で慰め合っているだけで、外に向かって関わりをもとうとしないことではないでしょうか。教会を通して神の意志が示されるのだと決めつけて、教会が一方的に教えるという姿勢になってはいないでしょうか。相手かまわず自分の言葉だけを放出しても思いは通じ合いません。いろんな言葉を話すけれども、自分の故郷の言葉を聞くという響き合いは起こりようがありません。ある人がこう語っています。「もしかすると相手が正しいかも知れない、という可能性を常に残しておいて、相手の言おうとするところを聞こうとする姿勢こそ対話の条件だ」(ボルノー)・・・そういう対話に生きることこそ、聖霊が降る、神の思いを運ぶ風に包まれることの具体的な形です。「二人または三人が共にいるところに、わたしもまたいる」と語ったイエスの言葉を思い起こします。神の働きは交わりを生み出すべく注がれてくる力です。ペンテコステの出来事は、自分の思い、自分の言葉で心を満たしてしまうのではなく、神の言葉を聞く余地をいつも大切に残しながら歩むことを促しています。神の思いを運ぶ風が届いたときに、心のその風を受け止めるために、少し隙間を開けておくという生き方を、ペンテコステの物語から促されるのです。

2017年6月18日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年6月18日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第3主日 こどもの日合同礼拝
説 教:「神さまの弓」
牧師 望月修治
聖 書:創世記9章12-17節
招 詞:詩編25章4-5節
讃美歌:こども讃美歌19,106,119,115,2
  91(1番)

*こどもの日合同礼拝を行います。
*115番「このはなのように」は手話で歌います。

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