SSブログ

2017年5月14日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.5.14 ヨハネによる福音書14:1-11 「あなたの居場所」    望月修治
   
◆ 同志社教会は毎月第1日曜日に礼拝の中でその月に亡くなられた方たちを覚えて、名前を読み上げ、永眠者記念の時を持っています。4月と11月の第1日曜日には午後から墓前礼拝も行なっています。特に11月の永眠者記念礼拝の時には永眠者の写真パネルを壇上に飾って、礼拝を守っていますが、写真と向き合いますと、お一人お一人がこの同志社教会で積み重ねられた信仰生活、祈り、賛美し、神に向き合うために献げられた時間が刻まれた人生の旅路に思いが巡ります。昨年度は10月に増田亮次さん、3月に久保誠三さんがお亡くなりになりました。増田亮次さんは88年、久保誠三さんは93年のご生涯でした。

◆ 人は誰も例外なく地上で人生を刻むことを終える時を迎えます。そのことは誰もが知っています。しかしそれと、自分の死が見える形で現れ始めて死と向き合うこと、あるいは自分の身近な人に死のときが現実として訪れる場合とでは全く意味が違います。弟子たちにもイエスとの別れが近づいていました。そしてそのことは弟子たちの中で現実感を持ち始めていました。「心を騒がせるな」とは弟子たちのそういう状況を見据えて語られた言葉です。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」これは「心を不安にしてはならない。神に信頼してあゆみ、わたしに信頼してあゆみを起こしなさい」ということです。「信じる」とは「信頼してあゆむ」ということです。不安を訴える弟子たちにイエスは「神に信頼して、わたしに信頼して歩みを起こしなさい」と語りました。信じるとは単に心の持ち方をいうのではなく、信頼して歩むこと、歩みを起こすことだとイエスは答えます。

◆ これに対して弟子の一人トマスは不安をぬぐいきれず「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と言葉を返します。信頼して歩めといわれても、どこへ向かってどのように生きたらいいのか分からないというのです。このトマスいう人物は、十字架で処刑され息絶えたイエスが、復活して弟子たちのいる部屋に姿をあらわしたとき、その場に居合わせず、仲間からいくら復活したイエスに出会ったと言われても、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったというエピソードで知られているあのトマスです。

◆ ヨハネ福音書に記されているトマスの発言は4回だけなのですが、しかしその発言内容には、彼の人生観とでも言ったらいいのでしょうか、その人柄を彷彿とさせるものがにじみ出ています。最初に彼の発言が記されているのは11:16です。 “すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。”と記されています。次が今日の箇所です。イエスが「心を騒がせるな。わたしの父の家には住むところがたくさんある。・・・・行ってあなたがたのために場所を用意する。・・・」と語ったことに対して、トマスが「主よ、どこへ行かれるのか分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と言葉を返しています。そして20:25で「あの方の手の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」 20:28で「わたしの主、わたしの神よ」この4回です。最後の「わたしの主よ、わたしの神よ」という信仰告白の言葉を除きますと、トマスの発言はいずれも人間の死に関するものであることに気付きます。

◆ このトマスの姿はヨハネ福音書が書かれた西暦90〜100年頃の教会の人びとの姿をある意味で象徴している、代表していると見ることも出来ます。ヨハネによる福音書が書かれた時期はイエスが死んでから60年ほどがすでに経過しており、生前のイエスや復活のイエスを直接知っている直弟子たちの時代はもう終わっていたと言ってよい時です。生前のイエスを見たことがなく、また復活のイエスも直接体験したことのない人達の時代になっていました。この時の隔たりは、今日の私たちの二千年と比べますとまだわずかな隔たりだとも言えますが、しかし直接イエスに接したり、復活のイエスに直接出会ったことがないという点では、同じ立場に生きる人達がすでにいたということです。ヨハネ福音書はそのような世代に属する人々に向けて書かれたという側面ももっています。イエスの死から60年近い時間の隔たりは十字架の出来事への距離感を人々の中に生じさせていました。

◆ イエスは復活したと言われても、いまひとつ現実感がない。その距離感をトマスという存在は表しています。それが今日の箇所では、未来を見通せない不安を語るという形で述べられています。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができでしょうか。」 イエスの歩む道が理解できない、見通せないというのです。この問いかけに対して、イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」と答えました。今あなたが見ているわたし、イエスの生き方こそ、たどるべき道、いのちをもたらすものなのだというのです。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。わたしを知った者は、父をも知る。今、あなたたちはもう父を知っており、すでに父を見ているのだ。」とイエスは語っています。未来への不安から解放し、生きることと向き合わせる手がかりは、過ぎ去った過去や、まだ生きてはいない未来のどこかにあるという漠然としたものではなく、今わたしと向き合っているその現実の中にあるとイエスは答えました。

◆ 久保誠三さんが3月30日の夜に、お亡くなりになりました。同志社中学の物理の教師として、また校長としての責任も担われて、93年という年月をこの地上に刻んで、神様のもとに向かわれました。久保さんは昨年秋に体調を崩され、山科の洛和会音羽病院に入院しておられました。病室をお訪ねしてしばらくお声かけした後、聖書を読んでから帰りたいのですが、と申し上げました。誠三さんは視線でベッドの傍の机の上に聖書が置いてあることを知らせて下さいました。私は聖書を持って行っていたのですが、誠三さんが「あっ、聖書だったそこにありますよ」と視線で伝えてくださった、その聖書を開いて読もうと思いました。1枚の小さな紙切れが挟まっていました。そこにいくつかメモ書きがしてありました。「ペテロⅠ 3、11」「悪を避けて善を行い、平和を求めて、これを追え」と記されていました。その箇所をベッドの傍で読ませていただきました。さらにそこには「鍛錬、協力」と書かれていました。いつ書き留められたのかはわかりません。同志社教会での礼拝あるいは集会の時に読まれた聖書だったのでしょうか、あるいは同志社中学での礼拝の時に書き留められたのでしょうか。印象に残る何かがあって、書き留められたのだろうと思うのです。「悪を避けて善を行い、平和を求めて、これを追え」 一つの言葉が心に止まる、それは具体的な体験と呼応して、共鳴が起きたときです。晩年の日々、神戸から京都の同志社教会に来られての礼拝出席はおできになりませんでしたが、献金を送ってくださり、また同志社教会の将来構想のことも覚え続けてくださっていました。病室に置かれていた聖書、ご自分ではもうお読みになれなかったであろう状況でしたが、命の旅は神様のもとで続く、その思いを重ねておられたのでないかと思いました。そしてそれは「わたしは道であり、真理であり、命である」と語るイエスを過去でもなく、未来でもなく、今、目の前に見ておられた一人の信仰者の伝言でもあると思うのです。

2017年5月28日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年5月28日(日)午前10時30分
復活節第7主日
説 教:「焼き魚と天への道」
牧師 望月修治
聖 書:ルカによる福音書24章44-53節
招 詞 :エレミヤ書10章6-7節
交読詩編:93
讃美歌:25、120、390、337、91(1番)

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。