SSブログ

2017年5月7日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.5.7 ヨハネによる福音書11:17-27「その扉をくぐって」   望月修治      

◆ ヨハネ福音書にはイエスの自己紹介文がよく出てきます。今日の箇所でも「わたしは復活であり、命である」(11:25)とイエスは語っています。「命」とは「ものを生かす力」のことです。そして「復活」とは「死んだ人が生き返ること」です。教会暦ではイースターからペンテコステまでの50日間を復活節と呼びます。今は復活節の期間です。十字架に架けられ生き絶えたイエスが3日目の朝に復活したと聖書は語ります。そのことの意味は何なのか、わたしたちの生き方にとってイエスが復活したということは何をもたらすのか、どのような命の用い方を示してくれるのか。そのことに思いが巡るのが復活節なのです。

◆ 死んだ人が生き返るということなのですが、イエスはしばしば「死んでいる者」という言葉を用いています。これは興味を引く言葉です。マタイ福音書8章にイエスの弟子となることを志願した者が「先生、まず父親の葬儀に行かせてください」と言ったことに対して、イエスが「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と応じたことが記されています。「死者を弔うことは死んでいる者たちにやらせておけ」というのですが、「死んでいる者」はもはや生きていないのですから、葬式を行うことなどできるはずがありません。したがってこの「死んでいる者」とは本当に死んだ人ではなく、「生きているのに死んでいるような人」のことをたとえていると考えるべきです。イエスは葬式などという儀式は人生において少しも大切なものではないというのです。極端なことをイエスは言います。死んでしまった人間に対していかに盛大な葬儀を執り行うことが大切なのではなく、生きている間に本当に活き活きと生きることが大切なことであるはずだ。だから、死人の弔いは、死んでいる者たち、すなわち生きているのに死んでいるような者に任せたおいたらどうだとイエスは言っているのです。一見まことに乱暴な言葉ですが、その裏には、今生きている人間が活き活きと生きるために働こうとするイエスの深い思いが満ちていると思うのです。

◆ しかし福音書によれば、イエスは「生きているのに死んでいるような人間」をではなく、本当に死んでしまった者を生き返らせるという奇蹟を行ったことも記されています。今日の箇所もその一つです。ベタニアでマルタとマリアの兄弟ラザロを、葬られてすでに4日たっていたのに生き返らせたという話が記されています。こうした奇跡をイエスは何のために行ったのでしょうか。

◆ 物語の舞台ベタニアはエルサレムから約3キロ弱の距離にあり、少し早足で歩けば40分から45分程度で行くことのできる道のりです。この村をイエスはよく訪れました。休息の場でもあったようです。イエスと関わりの深いこの村にマリアとマルタという姉妹とその兄弟ラザロは住んでいました。ラザロは病人であり、それもかなり重い症状であったようです。マリアとマルタはラザロの快復を願ってイエスのもとに使いを出し「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(5節)と伝えました。マリアとマルタそしてラザロとイエスとが大変親しい関係にあったことが分かります。5節に「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とありますが、この「愛する」はアガパオーという言葉が使われています。この言葉はひたむきで、切実であるという、そういう激しさを含んでいる愛を表しています。この一家に対するイエスの思いの深さ、強さを伝えてくれます。

◆ しかし物語はその思いと矛盾するイエスの行動を伝えています。ラザロの病気が重いことを聞いてもイエスはすぐさまベタニアに向かいませんでした。重体の知らせを受け取ったのに、2日間その場所を動こうとしなかったのです。何故イエスはすぐにベタニアに向かおうとはしなかったのか。その理由は記されておりません。読むものになぜなのかと考えることを促します。知らせが届いて2日という時間が経過してはじめてイエスはベタニアに向かいました。この2日の遅れは文字通り致命的であったと見えるのです。ラザロがこの間に死んでしまったからです。イエスの到着を待たずにラザロは息を引き取りました。イエスがベタニアの村に到着したときには、ラザロは既に墓に葬られて4日も経っていたと17節に記されています。この行動をどう解釈するかは、いろいろな見方があるだろうと思います。マルタはそのイエスを迎えに出るのですが、マルタそしてマリアにとって、どうしても分からぬ疑問がありました。なぜイエスは自分たちが使いに託した伝言を聞いて、すぐにベタニアに来てくれなかったのかということです。マルタはその疑問をひとつの不平としてイエスに語りました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」 それに対してイエスは「あなたの兄弟は復活する」と単刀直入に答えます。ところがこれを聞いたマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました。これは大変信仰深い言葉だと思えます。イエスはこう答えています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。」 この箇所を読みながら感じるのは、マルタとイエスの会話はどうもうまくかみ合っていないように思えます。

◆ この違和感は、イエスがこれらの不思議なわざを、ラザロのために行ったわけではなかったということを暗示しているのではないでしょうか。それはラザロが死にそうだという知らせを受けてもイエスはすぐにはベタニアに向かわず、死後4日も経ってからベタニアに姿を現したことから分かります。もしラザロのためであったのなら、彼が息を引き取らないうちにすぐに駆けつけるというのが自然の流れです。たとえ結果的には間に合わなかったとしても、知らせを受けたら間髪を入れずにベタニアに急いだという行動をとったのなら、ラザロのためにイエスは動いたと言いうるのですが、そうではありません。

◆ イエスが生き返らせたかったのは、死者ではなく、生きているのに死んでいるような人間を、もう一度本当の人生の喜びの中に活き活きと生きるようにしたかったのではないでしょうか。そのための一つのしるしがラザロを生き返らせるということであったのです。人間が明るく活き活きとしている状態をイエスは特に「生きる」と言います。逆にその喜びを失っている状態を「死んでいる」というのです。イエスが死んだ者を生き返らせる、その場合のポイントは、地上の命を歩み終えて文字通り息を天に返して亡くなった人を生き返らせるということにあるのではなくて、今生きている人の状態を活き活きとする生き方へと繋いでいくことにあります。そのために今置かれている状況に対する見方を変えること、違った視点があることを示して、だから新たに歩みだしてごらんなさいと促し、立ち上がらせること、それが「死んでいる者を生き返らせる」ことの中身だと思います。死んだら天国に行けますよ、という意味で復活を語られても、今この地上に生きている自分の日々の歩みにとってどのような意味があるのかと考えます。死んだら復活する、ただそのことに望みを置いて、しんどくても我慢して生きるしかないのか。聖書はそのような意味で復活を語っているわけではないと思います。聖書はもっと現実的です。神は、人が生きている今の状況を活き活きと歩めるために、生きることへの視点を変えることを促すのです。そのことが人にもたらすのは「死んでいた者が生き返る」という表現で語られるほどの生き方の深い転換なのです。

2017年5月21日(日)の主日礼 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年5月21日(日)午前10時30分
復活節第6主日
説 教:「まことの祈り」
牧師 髙田太
聖 書:マタイによる福音書6章1-15節
招 詞 :列王記上18章37-39節
交読詩編:93;1-5
讃美歌:25、11、495、497、91(1番)

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。