SSブログ

2017年4月9日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.4.9マタイによる福音書27:32-56 「十字架の守り人」 新入生歓迎礼拝  望月修治 

◆ 本日は「新入生歓迎礼拝」です。これまで同志社女子大学みぎわ寮に入られた新入生のみなさんが来てくださっています。加えて同志社大学の新入生の皆さんにも声かけをして一緒に礼拝をすることができないかと思い、今年は同志社大学キリスト教文化センターにお願いして新入生歓迎礼拝を後援していただき、神学部やその他の新入生の皆さんにもご案内することをし始めました。

◆ さて、同志社を設立したのは新島襄です。1864年に日本を脱国し、アメリカに渡った新島はボストンで8年間過ごしたのですが、そこで会衆派と呼ばれるキリスト教と出会い、そしてリベラル・アーツ教育を受けました。この二つが新島のモチベーションを深く育みました。1864年、幕末に日本を脱国し、そして1874年、明治維新後の日本に帰ってきたのです。いろいろあったのですが、新島は仏教の影響力がとても強い京都、その中でも京都御所の前、相国寺の隣にキリスト教主義の学校、同志社英学校を設立しました。大変な軋轢の中で同志社を設立したわけですが、新島は単なる勉学をする場所としての同志社ではなく、キリスト教によって心を育み、学んだものを用いる心を育てる、それが自分の使命なのだということに立ち続けて、同志社という学び舎を設立しました。キリスト教を抜きして同志社の今はありえません。同志社の141年、142年の歴史は語ることはできません。そういう意味で、同志社に入学されたのですから、授業で学ばれることに加えて、ぜひ聖書の世界に出会っていただければと思っています。同志社という学園はキリスト教、聖書の世界を皆さんに、授業という形を通して、礼拝という形を通して紹介し、お招きしている学園でもあります。その招きにどこかで出会ったら、恐れないで聖書の世界に入って来て下さったらと思います。そして食べてみていただきたいのです。食べ物はただ見ていても栄養にはなりません。食べてこそ栄養になります。聖書の世界も食べて見てくださったらいいなと思います。

◆ わたしは同志社大で毎週1コマ講義を担当させていただいています。最初の時間に、履修して下さった皆さんに毎学期お話しすることがあります。それは「聖書はとっつきにくいかも知れませんが、絵本を読む感覚で聖書を読んで見てください」というお話をします。誰でも絵本と出会った体験を持っています。絵本の世界では動物たちが人間と会話したり、ブレーメンの音楽隊のように動物たちが人間の泥棒を追い出したり、魔法使いが現れたり、ジャックと豆の木のように雲の上まで伸びたマメのつるをつたって大男の家に行ったり、いろんな物語を楽しんできました。絵本の世界に出会い、その世界の中にぐーっと入っていかれた、その感覚で聖書を読んでいただければと思っています。神様とか、聖書と言われるとたちまち心の扉が閉じます。聖書を読んでいくと、これは嘘か本当かという尺度を当てはめて聖書と向き合う方がとても多くおられます。絵本を読む時には大人もこどももこの世界が嘘か本当かという尺度で向き合いません。もっと違った尺度・座標軸で絵本の世界を楽しむと思います。聖書も絵本と同じ感覚で読んでいただきたいのです。聖書に書かれていることは嘘か本当か、事実が事実でないか、そんなふうに読んでしまったら、聖書の世界は全く面白くありません。退屈極まりない世界です。もともと聖書はその様なことを言いたかったのではないのです。いろいろな物語や出来事を通して、神様という目に見えない存在が私たちにどんな働きをして下さるのか、そのことによって人はどの様に生きて来たのか、それを伝えようとしている世界です。ヘルムート・ティーリケというドイツの神学者が「聖書は神の絵本だ」と語っています。聖書は文字と言う絵の具を使って神の働きを物語る絵本のようなものだというのです。難しい話をお聞きになることがあるかも知れませんが、嫌にならずに絵本を読むような感覚で楽しんで聖書に出会って見ていただきたいのです。

◆ 今日の箇所にはイエスが十字架に架けられた時のことが語られています。イエスという人は、威風堂々と何の恐れもなく、十字架にかかって「あなたがたのためにわたしは命を捨てるのだ」と言って息絶えたのかといえば、そうではないのです。十字架にかけられる前に、イエスはオリーブ山で祈っているのです。そのとき二つの思いの間で揺らいでいました。「できることなら、この杯をわたしから取りのけてください。」とイエスは祈っています。出来ることなら十字架にかかりたくはない。苦しみたくはない、それが正直な気持ちだったことをこの祈りは示します。しかしもう一つの思いもありました。「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という、神に委ねていこうとする祈りです。この二つの思いの間でイエス自身が二つの態度の中で揺れ動いたのです。

◆ 揺れ動くことは不信仰だ、信仰者は堅く立って揺れ動かないことこそ大事なのだと言われたりします。けれどそうではないはずです。信仰を持ったから、洗礼をうけたから、揺れ動かずにまっすぐ揺るぎもせず歩むことができる人など誰もいません。皆揺らぐのです。イエスも揺らぐのです。「できることなら、この盃を私から取り除けてください」と祈るのです。しかし一方で「わたしの思いではなく、神様の思いのままに行ってください」とも祈っています。この二つの間を人間は振り子のように揺れ動くのです。今日の箇所の最後のところに十字架にかけられたイエスの様子をずっと見ていた人たちがいたことが書かれています。その人たちは皆女性です。イエスには男の弟子たちがたくさんいました。でもイエスが捕らえられて十字架にかけられて息絶えていくときに、その様子を見守っていた弟子たちは誰もいませんでした。見守っていたのは女性たちだけでした。男の弟子たちの物語はたくさん書かれているのですが、しか肝心かなめの十字架でイエスが息絶えていくとき、「盃を取り除けてください」「なぜわたしをお見捨てになるのですか」と叫ぶイエスの姿をずっと見ていたのは女性たちでした。立派なイエス、奇跡を行ったり、病人を癒す時のイエスだけを見ていたのではなくて、揺れ動くイエスを女性たちが見ていたというのは大事なことだと思います。

◆ 聖書は揺れ動かないために読む本ではありません。揺れ動いたときに、それでもなお、揺れ動いた状況を受け止めて、生きる道があることを示す、それが聖書の世界です。その道を最後に見届けたのは女性たちです。彼女たちも不安だったと思います。イエスの最後を見つめていたら、いくら遠巻きとはいえ「お前たちもイエスの仲間か」と言われるかもしれない。そういう不安を抱えながらも、女性たちは十字架の上でイエスが見せた姿をずっと見ていました。揺れ動くイエスの姿を見ていたのです。その上で彼女たちはイエスが語ったこと、行なったこと、それを全部含めて、あのイエスこそ神様の思いを私たちに深く伝えてくれた「救い主」なんだと告白していくのです。立派さを見たからではなく、揺らぐイエスを見てそう告白したのです。これはとても大事なことです。立派でなくてはいけないとか、いつも祈っていなければならないとか、そんなふうに自分をがんじがらめにするのではなく、自分を解き放ってありのままの自分でいい、しかし自分たちが見ている世界だけではなく、それを超えた目に見えない世界から自分の命に届く世界がある。聖書はそのことを語っているのです。同志社という学園に来られたのは出会いです。せっかく与えられたこの出会いをぜひ生かして、聖書の世界に出会っていただいて、同志社の教育の根本にある聖書の世界に触れて下さったらと思うのです。

2017年4月23日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年4月23日(日)午前10時30分
復活節第2主日
説 教:「目撃者の責務」
牧師 髙田太
聖 書:マタイによる福音書28章1-15節
招 詞:イザヤ書65章18b-19節
交読詩編:16;5-11
讃美歌:24、330、334、325、91(1番)

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。