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2017年4月2日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.4.2マタイによる福音書20:20-28「身代金異聞」      望月修治     

◆ ユダヤではニサンの月(現在の3月から4月にかけての頃)、過越祭を祝うために多くの人々がエルサレムへ巡礼の旅をして上ってきます。イエスも弟子たちと一緒にエルサレムを目ざす巡礼者たちの中に混じり合いながら、エルサレムを目ざしていました。その途上でイエスは弟子たちを呼び寄せたとマタイは記しています。そのとき弟子たちが聞いたのは恐ろしいことでした。「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」 実はこれで3度目です。16章、17章でイエスは弟子たちに自らの死と復活を語ってきました。恐ろしい言葉、訳のわからない言葉がイエスの口から語られました。困惑が広がります。

◆ 初めて聞かされた時には、弟子の一人ペトロが「とんでもないことを言うものではありません」とイエスを脇に引っ張っていっていさめています。2回目の時には「弟子たちは非常に悲しんだ」とあります。しかしそのすぐ後で弟子たちはイエスにこう言うのです。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか。」イエスが捕らえられ殺される時が迫っている。けれども弟子たちは事態の深刻さを理解していたとはとうてい思えないのです。

◆ そして今日の箇所が3回目です。1回目と2回目の時は、弟子たちが皆集まってきた機会を捉えて語り聞かせるという流れになっていますが、3回目はイエスが呼び寄せています。意図的です。エルサレムへの巡礼の旅路を多くの人々が急いでいる、そのような喧騒の中で、わざわざ弟子たち12人を呼び寄せて、どのような死に方をするのかを語っています。3回目の受難予告の後には何が起こったのか。登場するのは一人の母親です。ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした、とあります。ゼベダイの息子たちというのは、ヤコブとその兄弟ヨハネです。3年前、二人はイエスから「人間をとる漁師にする 」と招かれてすぐに、イエスに従い、一緒に旅をし、その話を聞き、語り合い、寝食を共にしてきました。その二人が母親と一緒にやってきます。彼女はイエスのもとにひとつの願いを持ち込んできました。それも厚かましい願いごとです。「王座にお着きになるときに、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」この母親は、イエスがしばらく後には、エルサレムに上っていって「王座につく」つまりイスラエルの王になると考えていたようです。だからその右と左の席に息子たちをつかせてほしい、王に次ぐ第二と第三の権力者の地位を約束してほしいと願ったのです。イエスはこの母親の願いに対してこう答えました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」

◆ イエス・キリストが飲む「杯」とは何かといえば、18-19節に記されているイエスの言葉に明確に示されています。「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。」 十字架の死にいたる苦い杯こそ、イエスがこれから飲む杯だということです。そのことを「身代金」という極めて現実的な言葉でイエスは語り聞かせています。28節です。「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。」 「それを飲めるか」と問われて「飲めます」とヤコブとヨハネが答えています。事態を理解し、受け止め、覚悟ができているのではありません。ヤコブもヨハネもそして母親も、自分たちが何を言っているのか、何を望んでいるのか、その結果がどういう結果に結びつくのかを理解していないことは明らかです。イエスはそのことを分かった上で彼らにこう言います。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。」

◆ ところでこの母親の姿を、同じマタイによる福音書の中でもう一度、見い出すことになります。27:56です。それはイエスが十字架にかけられ、苦しみ、息を引き取った後の場面です。次のように記されています。「そこでは大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従ってきて世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」ヤコブとヨハネの母の名が、イエスの母の名と同じマリアであったということが、ここではじめて明らかにされます。この時、ヤコブとヨハネの母マリアが、十字架を仰ぎながら何を思い、何を考えたか、そして自分がかつてイエスに願ったことについてどうのように思いめぐらしたのか、福音書記者のマタイは何も記していません。しかしその時、十字架のもとで彼女がはっきり知ったことは、イエス・キリストが息子たちに向かって約束した「杯」というものが、彼女の期待したような権力者の座に近い地位とはまったく異なるものであるという事実でした。私たちの願うことと神の望まれることは、必ずしも一致するとは限りません。しかし神はゼベダイの息子たちの母親のような人間の利己的な欲望をも受けとめかつ用いるのだということを、今日の物語は明らかにします。
ヤコブやヨハネの母の願いを、また弟子たちの的を外した対応を、イエスは怒り、切って捨てたのではなく、弟子たちの現実、人間の限界を見つめながら、またそれゆえの悲しみを引き受けつつ、なお向き合い、語り続けたのだと思います。

◆ どんなに近く、親しく生きていても、理解しあえぬものを持つが故に、時に行き違ってしまう人間の現実をそのままに引き受け、傍にあり続ける生涯を歩み通してイエスは死んでゆきました。それは人間が人間である限り持たざるを得ない限界と、それ故に生まれ、味わされる孤独や寂しさや哀しみに連帯しつつ、それをなくすことによってではなく、見つめることによってもたらされる不思議な豊かさを教え示すかのような生涯でした。

◆ 人が大切なものを失ったとき、その哀しみと痛みをうち消すのではなく、その傷をもってなお生きることが出来るように備えていくというのが、十字架の出来事を通して人間のもとに届けられた神からのメッセージです。失ったとき初めてその価値に気づくことがあります。

◆ 一人の女子高校生が未来の自分に宛てて書いた一通の手紙があります。
「未来の私は笑っていますか。幸せだと胸を張っていますか? 今の私は、胸を張って幸せだとは言えません。覚えていますか? 死んでしまいたいと思うくらい悩んだ日々を、気持ちを。 でもこんな時だから、友達の大切さを知ることができたことを。あの時のことは、決して忘れないでください。もし、辛いことがあったら、心の中で唱えてください。『自分は一人じゃない』って。 未来の自分が笑顔で幸せに生きていることを願って、今の私は生きています。」 自分は一人だと孤独に悩み、いじめの辛さに出口の見えない苦しみを味わう、その気持ちを打ち明けてみる。人には話せなくても、未来の自分に宛てて手紙を書いてみる。そのことを何かで、あるいは誰かから促され、思いを心の外に出し綴ってみた。そのとき、心の苦しみという闇に、光が差し込む窓があることに気づくのではないか。心の思いを打ち明け、物語ることによって開く窓が心にはあることを、弟子たちにそして人々に伝えるために「多くの人の身代金」となる道を歩んだのだと思うのです。

2017年4月16日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年4月16日(日)午前10時30分
復活節第1主日 イースター礼拝
説 教:「彼女は振り向いた」
牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書
20章1-18節
招 詞:イザヤ書12章1-3節
交読詩編:30;2-6
讃美歌:27、327、333、524、91(1番)
〇聖餐式を行います。

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