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2017年3月12日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.3.12  マタイによる福音書12:22-32 「ある追放疑惑」   望月修治      

◆ 東日本大震災から6年がたちました。福島では避難区域の指定解除が伝えられていましたが、被災した人たちの暮らしに亀裂が広がり、深まっていることを知らされます。福島第1原発事故による放射能被曝が与え続けている被害の深さ、傷と痛みの深さは計り知れません。子供たちの甲状腺がんが広がっている現実は殆ど知らされていません。風評被害も消えません。福島という地に対して、そこで暮らしておられる人たちに対し、他の土地に避難した人たちに対して、福島で生産されている農産物に対して、海の沖合で獲れる魚介類に対して、汚染されている、汚い、毒を食わせるのか、そういったレッテル張りが続き、被害を受けた人たちを打ち続けています。そのレッテルを貼る側に私もいる、その自分と向き合わされています。レッテルを貼る、それ貼る側の思い込み、決めつけがすべてだと言っても言い過ぎではありません。

◆ 人は神に対してもレッテルを貼ろうとします。神が神であることの証明を求めるというレッテル貼りです。もう少し絞り込んで申しますと、神に対して自分のイメージに当てはまる神であること、自分が理解している枠、神とはこうあるものだと理解している枠からはみ出さない神であることを納得させてくれる証し、あるいはしるしを求めてはいないでしょうか。また人は自分がイメージしている福音理解にこだわります。聖書に記された福音、イエスが自らの生き方をとおして提示した福音を受けとめて生きるのではなく、自分の理解した福音のイメージにあくまで固執し、聖書に聞くのではなく、自分の福音理解に聖書を合わさせるのです。そして自分の理解に合わない話、聖書の読み方、生き方を「教会的ではない」とか「福音的ではない」という言い方で切り裁くのです。かみ砕いて言えば「私には合わない」ということでしょう。

◆ 本日の聖書の箇所には深い戸惑いを覚える言葉が記されています。「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」このイエスの言葉はわたしたちに深い戸惑いを覚えさせます。イエスが十字架にかけられ死んだという出来事は、すべての人の罪に対する赦しの宣言ではなかったのか、よりによってそのイエスが「赦されない罪がある」と語るのは、どういうことなのか。

◆ 「ベルゼブル論争」という小見出しがつけられているこの物語は、自分たちのあるいは自分の聖書の読み方、神の理解に合わないことに対して、それを揶揄し、批判し、引きずり降ろすために仕掛けられた論争が記されていると言ってよいと思います。ベルゼブル論争とは、ある日イエスが悪霊に取り付かれて目が見えず口の利けない人から悪霊を追い出して、ものが言え、目が見えるようになったということが発端となって、人々とイエスとの間に起こった論争のことです。この出来事を見ていた群衆は驚いたとありますが、その驚き方の中身は一様ではありませんでした。口の利けなかった人がものを言い始めたということをどう解釈するかという点で人々の見方は分かれました。「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者もいれば、イエスを「ダビデの子ではないか」という者もいました。

◆ 病気を癒すイエスにたいして、横やりを入れるのです。当時、社会的な意味で人を徹底的に抹殺するためには、「この人は悪霊の仲間だ」というレッテルを張ることが早道でした。それが気に入らない相手を抹殺ための一番効果的な方法の一つでした。それに対して、イエスは挑戦的とも言える論争を展開します。「内輪で争えば、どんな国も荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪でもめれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。」もしもわたしが、悪霊の頭の力によって悪霊を追い出しているということになれば、わたしは悪霊の国の中に内乱を起こした反逆者ということになるではないか。そんなことがありえるかとイエスは切り込みます。人がなす営みは、決して自己完結できない。私たちがいろいろなことに取り組んで手にする結果は、外から働く力が伴ってもたらされたものなのです

◆ 「あの男は悪霊/ベルゼブルに取りつかれている」といってイエスを非難する人たちの立ち位置は、神の働く領域を否定し排除して,自分たちの判断を優先させ、関係をはかろうとする生き方を象徴しているのではないかと思いました。ルカ福音書17:20-21で「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」とイエスは語っています。人と人との間、そこに思いを注ぐことの大切さを聖書は語ります。それは神が働く場を、いろいろな人との関係において留意する、用意するということです。人の業はどんなに優れていても、そこに人の思いだけではなくて、外からの力を取り次ぎ、重ねて行くことによって実りを得ることができるのです。そのことこそ私たちが忘れてはならないことであり、イエスと出会い、神を知って生きることの具体的な形なのだと思います。神の働く場をどんな人との間にも用意し,そこに神を迎えながら関係を作り、いろいろなことに一緒に取り組んで行く。そこにこそ信仰を持って生きる者の独自性があり、豊かさがあるのです。いろんな奉仕をする、いろいろな働きをする、それらはキリスト者でなければできないというものではありません。キリスト者でない人も同じような働きを、むしろもっと踏み込んだ働きを担っておられる方がたくさんおられます。私たちがキリスト者としていろいろなことに取り組んで行く、その働きは何が違うのか。その働きに中に神が働く場をちゃんと備えていろいろなことに向き合い、取り組んで行く。そのあり方こそ信仰をもって生きる者の独自性、豊かさがあるのだと思います。人と人との関係の凝りを解きほぐすためには、神の働く領域をお互いの間に備えることが大事なのだと聖書は説くのです。

◆ 謝っても許してもらえないことをした。これは神の前に立つ私たちすべてに当てはまって行くことだと思います。誰一人、神に対してごめんなさいと言って許してもらえるという存在では本来ないのだ、ということです。それを、イエスは自らに引き受けて十字架の道を歩んで、あの悲惨な十字架にかけられて命を落とされた。聖書はそのことを私たちに語るのです。今私たちは受難節を歩んでいますが、私たちは何者であるのか、イエスが私たちに代わって叱られて下さった。そのことの途方もなさ、とんでもなさに向き合って今の時を歩まなければならない一人一人なのだと思うのです。相手の心に傷を付けてしまったら、その傷が消えることはないのです。許してはくれるかもしれませんが、傷が消えることはないのです。相手の人が、その傷を引き受けながら「いいよ」「許すよ」と言ってくれる、そのことの有り難さ、重さ、かけがえのなさをどれほど思って「ごめんなさい」と言ってきたか、あまりにも軽く、許してもらって良かった、それで終わってきてしまったことはいくつもあるのではないか。自らを振り返りながら、そのことを思いめぐらされました。

2017年3月26日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年3月26日(日)午前10時30分
復活前第3主日/受難節第4主日
説 教:「戸惑う人々」
牧師 望月修治
聖 書:マタイによる福音書
17章1-13節
招 詞:出エジプト記24章3-4節
交読詩編:145;1-13
讃美歌:25、59、285、481、91(1番)

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