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2017年3月5日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.3.5  マタイによる福音書4:1-11「誘惑者の挑戦」      望月修治     

◆ 先週の水曜日、3月1日からレント(受難節)に入りました。レントの期間を40日とする根拠になったイエスの40日間の断食をめぐる出来事が記されているのが今日の箇所です。ヨルダン川でバブテスマのヨハネから洗礼を受けたあとイエスは、霊によって荒れ野に導かれ、40日間、昼も夜も断食した後、悪魔の試みに遭います。イエスが伝道活動を開始するときに体験したこの出来事は、主にマタイ福音書とルカ福音書に記されています。マタイ福音書の記事で興味深いのは、イエスがこのとき荒れ野に行ったのは悪魔から誘惑を受けるためであったという1節です。この表現はルカにはありません。しかも「霊に導かれて」とあります。悪魔がイエスを荒れ野に導いたのではありません。導いたのは霊、すなわち神の意志によるというのです。この二つの表現によってマタイは、「荒れ野」での試みがイエスにとって避けることができなかった出来事であったことを強調しています。

◆ 加えてこのときイエスが受けた試みの厳しさが40日間の断食ということで語られています。荒れ野で断食したイエスは空腹を覚えます。40日間という期間は、イエスが耐え難い飢えと渇きの中にあったことを示します。そのような状況に置かれた者に、悪魔はささやきかけます。「もし神の子であるのなら、石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスは次のように答えました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」このイエスの言葉は、しばしば次のように解釈されてきました。人はパンすなわち物質のみに生きるのではなく、見えない力によって生かされる。パンにこだわる生き方を戒め、神の言葉を拠り所として生きることこそ大切なのだというふうに読まれてきました。

◆ この解釈が違っているというわけではありませんが、イエスが語ったのはそれとは少し違った意味合いだったのではないかと思っています。福音書には、イエスが食べ物のことについて言及している物語がいくつも語られています。食糧としてのパンを軽んじるような姿勢をイエスはけっしてとってはいません。今日の箇所で、40日の断食をして飢えを経験したイエスは、目に見えないもので肉体の空腹が満たされるというところから語ったりはしないのです。五千人、四千人の人たちが空腹になっていたときの記事もあります。このときイエスが行ったのはその人たちに食べ物を配って、空腹を満たすことでした。主の祈りの中でも「わたしたちに必要な糧を今日お与え下さい」という、1日を生きるために必要な食べ物が与えられるように願う祈りがあります。それから十字架の出来事の直前、弟子たちとの最後の集いも晩餐でした。イエスが信仰の意義を弟子たちや人々に説くのは食べ物を与えた後なのです。

◆ ヨハネ福音書6章26−27節に次のように記されています。これはイエスが5千人の人々の空腹を大麦のパン5つと魚2匹を配って満腹にしたという出来事の後に語られた言葉です。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」 人々がイエスの後を追って来たのを見て語られた言葉です。その理由はイエスの教えに思いを揺さぶられたからというよりも、パンが与えられたからだと言っています。人はお腹がすけば神の言葉ではなく食べ物を追い求めるのです。イエスはその現実を非難するのではなく、受けとめます。飢えはまず、満たされなければならない、という立場をイエスは離れません。その上で、お腹が満たされ、肉体が満たされるのを感じたならば、心の飢え、魂の飢えからも、目を背けてはならないというのです。

◆ 肉体の飢えが食べ物によって満たされるように、魂の渇きは言葉によって癒され、支えられ、満たされます。人間の存在に絶対に欠くことの出来ないものが三つあります。空気と水と言葉です。「あなたは言葉をだれからもらったのですか」と問われたらどのようにお答えになりますか。学校へ行ってから言葉を習い覚えたわけではありません。幼児の時から、いや乳児の時から、もう言葉らしいものを声にしていました。赤ちゃん言葉も母と子の間に気持ちが通い合うのですから、まぎれもなく言葉です。教えられるというのではなく、話しかけられる言葉を耳にしているうちに、ごく自然に口移しに覚えたのです。覚えるというよりも、母の乳房を口にしてお乳を飲みこむように、耳に入ってくる気持ちのこもった言葉を飲み込んだと言った方が適切です。

◆ 言葉は教え込んだり、くどくど解説したりすると、単なる知識として受け止められ、生きる力にはつながりません。思いをこめて語りかけ、気づきを促すことが大事です。分からせるのではなく、感じて気づかせる体験が今の子どもの育ちには欠けています。想像力は耳で聞く体験を通してこそ、豊かに養われます。そしてその後に文字を読む、文字を書くという働きがあるのです。 

◆ 「ブックスタート」という運動が日本各地の村や町や市で実施されています。この運動は市区町村自治体が行っている0歳児検診などの機会に、「絵本」そして「赤ちゃんと絵本を楽しむ体験」をプレゼントする活動です。1992年、イギリスのバーミンガムで始まった運動です。新生児の定期健康診断の際に、保健センターで保健師と図書館員、それにボランティアの人々が協力して、絵本を二冊ずつ、説明の言葉を添えてお母さんと赤ちゃんに手渡し、またその場で赤ちゃんに見せて話しかけるのです。初めて親となったお母さんの中には、こんな小さな子に絵本は必要ないと思っている人も少なくありません。しかし実際に赤ちゃんに絵本を見せながら話しかけたり、絵本を読んであげたりすると、意外に赤ちゃんが喜んだり興味を示したりするのをみて、自分も赤ちゃんに絵本を読み始めるお母さんがどんどん増えている。母と子が挿絵を見つめ合い、お母さんが絵本から自由に感じ取った言葉をかけたり、読んだりすると、母子の間に快い気持ちの通い合いが生まれ、赤ちゃんが喜ぶことでお母さんも幸せになります。つまり絵本に秘められた楽しさを母子が分かち合う、その体験を通して子育ての楽しさを実感することが「ブックスタート」の趣旨です。

◆ 言葉には見えないものを見えるようにし、生き生きとした喜びをもたらしてくれる力があります。子どもが同じ本、同じ物語を繰り返し「読んで」と求めるのは、その喜びを体で感じ取っているからです。言葉は知的なものであるよりも、本来生理的なものだと言われます。特に乳幼児にとっては、言葉は頭で記憶したり理解するものではなく、体全体、心全体で感じ取り味わうものです。子どもは言葉を覚えるのではなく食べるのです。

◆ 預言者エレミヤはこう語りました。「 あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び踊りました。」 <神の言葉を食べる>とは巻物に記されている神の言葉を、ただ読んで理解するだけでなく、その内容をかみ砕いて、自分自身の本当の栄養とすることです。人間の暮らしはいつも平穏だというのではありません。辛いこと、苦しいことが訪れてきます。聖書に生きる生活とは、決してその現実から逃げることではなく、その現実のただ中を深く生きることです。神はその現実のただ中で働き続ける。だから神の言葉を食べる時、人の心は喜び踊るのだとエレミヤは語ったのです。

2017年3月19日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年3月19日(日)午前10時30分
復活前第4主日/受難節第3主日
説 教:「放下(ほうげ)」
牧師 髙田 太
聖 書:マタイによる福音書
16章13-28節
招 詞:ヨエル書2章12-13a節
交読詩編:86;5-10
讃美歌:28、291、305、411、91(1番)

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