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2017年1月8日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.1.8 マタイによる福音書3:13-17 「止めるな、今は」 望月修治     

◆ 昨年12月25日のクリスマス礼拝では、3名の方が転入会、3名の方が洗礼をお受けになりました。教会の歩みの中で、転入会して下さる方をお迎えできるのは大きな喜びです。そして受洗による「キリスト者の誕生」はいつも心打たれます。

◆ 私が洗礼を受けたのは高校1年の時でした。家系図的な言い方をすれば、望月の家系では、わたしは2代目のクリスチャンです。最初は私の母です。7年前に亡くなりましたが、母は自分がなぜ洗礼を受けたのか、その顛末を、私が洗礼を受けることになった時に、話してくれました。母が受洗するきっかけは私の姉の存在でした。姉は4年前に亡くなったのですが、脳性小児麻痺で、重い知的な遅れをもって生まれてきました。母はこの姉をかかえて、世話に疲れ、ぎりぎりの所まで追いつめられていました。その荷の重さをこのままでは担いきれないというせっぱ詰まった思いの中で、洗礼を受けました。受洗したのは新潟県の長岡教会です。しかし洗礼を受ける前に母は一度も教会の礼拝に行ったことはありませんでした。ただ、たまたま教会員に母が結婚する前から親しくして下さった方があり、この方の丁寧な紹介と執り成しによって母は事前に1度も礼拝に出席しないままで受洗を許されました。洗礼を受ける日曜日の朝、既にそのことを伝えてあった私の父には「行ってきます」と告げ、また同居していた祖母、この祖母はいわゆる耶蘇嫌いで嫁がクリスチャンになるなど許すはずのない人でしたが、祖母には「会合があるから出かけてきます」と言って家を出ました。はじめて教会の礼拝に出席し、初めて出会う教会の人たちに見守られながら、田中金蔵牧師から
母は洗礼を受けました。そしてふつうなら喜びの中で出席するはずの愛餐会に出る時間のゆとりももてず、何とか昼食に間に合うように家に帰りました。その後は祖母が亡くなるまで1度も教会に行くことのなかった母でした。行くことがなかったというより、行くことが出来なかったのです。祖母が亡くなったのは私が小学校を卒業する年の春でした。その時まで私は母が洗礼を受けていることなど全く知りませんでした。聖書はもちろんのこと、教会のことなど何一つ知らず、キリスト教の世界に何の関心ももたぬままに過ごしました。中学生になって、教会の牧師が塾をやっているからと英悟と数学を習いにやらされました。むろんこれは母がいわゆる教育熱心であったからではなく、私を何とか教会に結びつけたいと思ったからです。日曜日には教会学校にもやらされました。自分で進んで行ったのではなく、無理矢理やらされたのです。これが私とキリスト教との出会いです。初めて歌う讃美歌、はじめて読む聖書、そのひとつひとつがなじめず、訳が分からず、礼拝はまことに面白くない、つまらない時間でした。当然のことながら反発し続け「神が何処にいるか証明してくれたら信じる」というお定まりの文句を並べ立てて何度か母に激しくつっかかったことがありました。その度に母は困った顔をし、つらい顔をし、悲しそうな顔をして、ポンポンと屁理屈を並べ立てる私の言葉を聞いていました。ある時たまりかねて牧師に電話をし、来て話をしてほしいと頼んでいた母を思い出します。

◆ 今日の箇所にはイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたときのことが物語られています。ヨハネは野の人でした。らくだの毛衣を着て、腰には革の帯を締め、いなごと野密を食べ物として、荒れ野で人々に語りかけました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」そう語って、ヨルダン川で悔い改めに導く洗礼を人々に授けていました。イエスはこのヨハネから洗礼を受けてのち公生涯と言われる3年あまりの活動を開始します。このことはよく知られた出来事ですが、しかし初期の教会の人たちにとって、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けたということは大きな問題となりました。なぜなら、イエスが救い主であるなら、なぜあえて悔い改めに導くための洗礼を受けたのかということになるからです。

◆ この厄介な問題についての解答を与えようとしたのが今日の箇所です。イエスの側とヨハネの側と双方からの答えが記されています。まずヨハネの側から示されているのは、洗礼を授けてほしいというイエスの申し出をヨハネが強く辞退するということです。つまりヨハネは自分がイエスに洗礼を授ける立場になく、むしろ逆であることを明言します。すでに11節で「わたしは悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履き物をお脱がせする値打ちもない」と述べており、ヨハネ自身が救い主の前では奴隷に等しい者であるとの自覚をもっていることを明らかにしています。そして自分の方こそイエスから聖霊による洗礼を受けたいと望んでいると述べます。

◆ 次にイエスの側からは、彼がはっきりとした目的を持ってヨハネのところに来たことを強調されます。ヨハネの強い辞退の意志にもかかわらず、イエスは自分の受けるべき洗礼は「正しいこと」であると述べて、ヨハネを説得します。イエスが現れたとき、ヨハネは自分が洗礼活動する時代は終わり、救い主自らが洗礼を施すべき時が来たのだと考えて、イエスへの洗礼を遠慮しました。しかしイエスはその洗礼を正しいこと、つまり神の意志にかなったことなのだと答え、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました。この時の洗礼は川の中に全身を浸す浸礼でした。

◆ それではイエス・キリストがバプテスマのヨハネから洗礼を受けるということが示す洗礼の新たな意味とは何なのでしょうか。この点について大切なことを語っているのはパウロです。彼はローマの信徒への手紙6:3で次のように述べています。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。」 洗礼を受けることにおいて大切なのは、「イエス・キリストの死にあずかる」ということだとパウロは言っています。では「イエス・キリストの死にあずかる」とはどういうことなのか。それはイエスの十字架の死を招いた原因は何であったのかを見据えることで分かります。イエスの死をもたらしたのはイエスの生き方そのものでした。当時罪人と呼ばれた人々と交わり、その人たちの側に立って生き続けた、その生き方が律法に反する、律法をないがしろにする、ひいては神を冒涜することだと非難されて、結局ユダヤ当局者はユダヤの民衆を扇動しながらイエスを十字架へと追いやったのです。イエス・キリストの死にあずかるとはこのようなイエスの生き方が示すことを受けとめて生きること、十字架の死の意味を見据えて生きることを意味します。

◆ イエスの死にあずかるということは人の生きる意味、人の死の意味、それを決めるのは神のみだということに向き合うと言うことです。そのことを受け入れて生きるという生き方を選び取っていくということです。イエスが洗礼を受ける、それは神の御心に適うことなのだから、正しいことなのだから今は止めるなと言った。それは生きることの意味、死ぬことの意味は人が決めることではなくて、神がきめること、神の手にのみあること、その思いがあったからこそ自らの十字架の死の意味は人が決めることではなくて、神が決める、神が定める。だから私は洗礼を受けるのだ、その神の意志を受け入れるしるしとなる洗礼を受けるのだとイエスは言ったのではないでしょうか。

2017年1月22日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年1月22日(日)午前10時30分
降誕節第5主日
説 教:「低みに立って見なおせ」
牧師 望月修治
聖 書:マタイによる福音書
4章12-17節
招 詞:イザヤ書9章1-3節
交読詩編:44;1-9
讃美歌24、54、403、494、91(1番)
〇こどもの教会に出席される方は筆をご持参ください。

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