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2016年11月13日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2016.11.13  申命記18:15-22「選ばれた者の錯覚」        望月修治     

◆ イエスの眼差しから見る、という言い方が許されるとしたら、イエスにとって申命記は旧約聖書の中でも中心的な書物だったと言えるかも知れません。新約聖書の福音書には、イエスが申命記に重きを置いて読んでいたであろうことを示す記事が記されています。たとえば律法学者から「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と問われたときにイエスが答えた「あなたの神である主を愛しなさい」という言葉。あるいは荒れ野で悪魔から受けた誘惑に対してイエスが答えた「人はパンだけで生きるものではない」、「あなたの神である主を試してはならない」、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という言葉はいずれも申命記に記されているのです。

◆ このように節目となる出来事の中で、イエスは申命記の言葉を引用しています。そのことを思うと、イエスが重きを置いて読んでいたであろう申命記という書物に興味がわいてきます。申命記は次の言葉で始まっています。「モーセはイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた。」「これらの言葉」とは申命記に記されている言葉です。どこで告げたのか。「それはヨルダン川の東側にある荒れ野、モアブ地方で」。ではいつ告げたのか。「第四十年の第十一の月の一日」とあります。「第四十年」とはイスラエルの人々がモーセとともにエジプトを脱出したその時から40年目ということです。その年の十一の月の一日に、モーセは主が命じられたとおり、すべてのことをイスラエルの人々に告げた、と記されているのです。

◆ そして申命記の最後34章にはモーセの生涯の最後の場面が描かれています。神はモーセをモアブの平野からネボ山、すなわちピスガの山頂に立たせて、そこから見渡せるすべて土地を示しながら「これがあなたの子孫に与えると約束した土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした」と語ります。そしてそのあと驚くべきことを告げるのです。「あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」 エジプトを出てから40年、多くの辛酸を味わい尽くしながら、目指してきた約束の地にもう一歩というところまでようやくやって来たのに、「あなたはそこまでだ」と神から言われたのです。なんと理不尽なことかと思います。しかし申命記は淡々とモーセの死を記します。「主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。・・モーセは死んだとき百二十歳であった。目はかすまず、活力もうせていなかった」と締めくくられています。

◆ モーセの死は人間の生、人生がどのような面を持っているのかを示してくれているのです。それは未完であるということです。私たちの人生はいずれも完成されて終わるのではなく、未完のまま終わるということです。これはモーセに関してという限定された見方ではなく、聖書を貫いて示されている大切なポイントなのです。新約聖書のフィリピの信徒への手紙3:12-14はこの見方を端的に語っている箇所の一つです。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とか捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」・・・・このパウロの言葉にも受け継がれているように、人間は未完であり、途上にある者であり、限界を持っているというのが聖書を貫いている人間理解なのです。

◆ 人は限られた者です。限られた能力、限られた時の中で歩む者です。モーセもまた限界を持った人、限られた存在として描かれてきました。エジプトを出た人々の指導者であり続けましたが、しかし、彼は何度も泣き叫び、悔やみ、うろたえ、行き詰まるのです。決してカッコいいスーパーヒーローとして描かれているのではありません。神への信頼においていつも揺らぐことなく、厳として立ち続け、人々の迷いや揺れを自信を持って受け止め、いさめ、一筋の道をずっと導き続けた、そんなふうには描かれてはいないのです。モーセはまた、生涯派閥を作りませんでした。自分の取り巻きとか、特に親しく相談する、あるいは彼を積極的に支持してくれる人を自分の周りに集めるというようなことはしませんでした。さらには、自分の子を後継者として選ぶということもなく、ある意味では愚かなまでに無力に神に用いられた人でした。

◆ 今日の箇所の18節に「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。」とあります。わたしとは神のことであり、あなたとはモーセのことです。神はモーセのような預言者を立てると語る。モーセのようなとは、いろいろあったけれど指導者として40年間、あのかたくなな民を導いたモーセの能力や才覚を評価して、そのモーセのような力量を持った人物を預言者として立てるという意味ではおそらくありません。そうではなくてモーセのような用いられ方を指して言われていることです。神に召し出され、エジプトに赴き、ファラオと交渉して、イスラエルの人々を連れてエジプトを出る、海を二つに分けてエジプト軍の追っ手から人々を守る、荒れ野の旅の中では、マナを天から降らせ、また岩を杖でたたいて水を出す・・・・モーセにまつわるエピソードは実に多く数え上げることが出来ますが、それをモーセの能力、才覚ととらえるのではなく、一人の人間が神に用いられて全イスラエルの人々に自らの力の大いなることを鮮やかに示した、そのことを「あなたのような預言者」という表現で語っているのです。モーセ自身はあくまでも限定された人生を生きた存在として描かれています。彼は約束の地に足を踏み入れることなく生涯を終えていった人です。あと1歩だったのに、もうちょっとだったのになぜと私たちは思います。しかしここに人間のいのちの姿があります。すなわち未完であり、途上にある者として歩み、地上での命を閉じるのだということです。振り返ってみれば、エジプト脱出後、労苦を分かち合って来たモーセの兄アロンも目指すべき地に足を踏み入れることなく、荒れ野の旅の中ですでに亡くなっています。そして今モーセも、です。人は途上にある者として、地上の旅を終えます。

◆ 人間はしばしばこの限定を踏み越えようとして焦ります。「明日のことは思い煩うな」「自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(マタイ6:25)とイエスは語っていますが、この限定を人は踏み越えようとして焦るのです。明日のことを思い煩い、自分の命のことで思い悩みます。それが許されない、確かめられないとなると、今度は逆に過去を人は振り返り始めます。あの頃はよかった、あの頃に戻りたい、あの時こうすれば今は幸せであるはずなのだ、過ぎ去った時のあれこれを振り返り、その思い出の中に閉じこもろうといたします。けれども人間は、未来を先取りして生きることは出来ませんし、過去に戻って生き直すこともできません。出来るのは、今ある状況を引き受けて、今から始めるということです。

◆ 未完ということは大切なのです。それは私たちが限界を持っている存在であることを自覚させるからです。そして未完であるからこそ、いのちを神に託して歩むことの意味深さを味わい知る者となるのです。

2016年11月27日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2016年11月27日(日)午前10時30分
降誕前第4主日
同志社教会創立140年記念礼拝
説 教:「唯この力ある神に頼りて
新島学園短期大学 山下智子
聖 書:エフェソの信徒への手紙
3章14-21節
招 詞:イザヤ書2章2-3節
交読詩編:24
讃美歌:27、127、419、461、91(1番)

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