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2016年11月6日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2016.11.6  創世記13:1-18「苦い別れの後で」       望月修治         

◆ 今年も永眠者記念礼拝を迎えました。1年という時間の経過の早さを感じています。永眠者を記念することの意味は何なのかと考えます。それは私達が「過去」とどう向き合ったらいいのか、あるいはどう向き合うことで「過去」は私達の今を生かすのか、と問いかけることでもあります。聖書を読むこともそれに似ています。毎週の礼拝で聖書を読みます。毎日の暮らしの中でも聖書を読みます。新約聖書は二千年前、旧約聖書はそれよりもはるかに前の時代に語り伝えられた物語、書き記された神の出来事、神の物語が編集され、まとまった文書となり書物となりました。そういう意味で聖書は「過去」です。しかし聖書は過去を懐かしむために読まれて来たのではありません。その時代その時代を生きていた人たちの今を生かし続けてきました。遠い昔、イスラエルの人々が感じ取り体験した神の働き、味わった神との出会いは、時をつらぬいて、神の働きを新たに届ける今の物語として人を包み、人を活かし続けてきました。聖書という過去がなぜ今を生かすのか、それは私たちに、生きることへの視点の転換をもたらすからです。聖書の物語には生きることへのたくさんの「なるほど」が宿っているからです。なるほど人はこんなふうに生きることができるのか、その気づきを人に与えてくれる、だから聖書という過去はわたしたちにとっていのちの言葉なのです。

◆ 本日の聖書日課は旧約聖書の創世記13章です。創世記は12章からは、イスラエルの祖先たちが歩んだ歴史物語が記されています。その物語の最初に登場するのはアブラハムです。物語の舞台は紀元前2000年頃の古代オリエント世界です。物語が生み出されたのは紀元前900年代後半だと考えられています。そのような遠い過去の物語が今を生きる私たちに何を語りかけてくれるのでしょうか。

◆ 創世記の物語によれば、アブラハムは175年の生涯を生きた(25:6)というのですが、その生涯で聖書に記されているのは75才以降の歩みです。12章の書き出しに次の言葉が記されています。「主はアブラムに言われた。」ここではアブラハムはまだ改名する前の名前で「アブラム」と呼ばれています。「主はアブラムに言われた」ここからイスラエルの人々の歴史のすべては始まっています。神がまず行動を起こし、語りかけ、アブラハムという一人の人間を召し出した、そこから始まるのです。神が語りかけた、神が命じた、神が招いた、それをアブラハムは受けとめて従った、このことが12章から始まるイスラエル民族のすべての物語の根底を貫いています。アブラハムが自発的に考え、判断し、決めたのではありません。彼は応答したのです。神の呼びかけに応答し、神の招きに応じたのです。イスラエルの歴史は神のイニシアティブによって始まった、それが聖書の示す歴史理解です。

◆ アブラハムは75歳のときに「わたしの示す地に行きなさい」という神の呼びかけに応えて、妻のサラ、甥のロトなど一族郎党を引き連れて、長く住み慣れたユーフラテス河上流のハランという町を離れ、カナン地方、現在のパレスチナ地方に向かいました。ところがカナンの地が激しい飢饉に見舞われてしまったために、アブラハムとサラはエジプトに逃れます。紀元前2000年、当時カナン地方はエジプトの勢力圏に組み込まれていて、双方の行き来は盛んでした。ですからカナンに飢饉が起こった場合に、多くの人たちがエジプトに移住し、飢饉を免れようとしました。しかし問題が持ち上がりました。エジプトの王がサラを妻とそして王宮に入れたのです。アブラハムは自分が夫であることが王に知れたら殺される、そのことを恐れて、妻のサラを妹といつわって、自分の身の安全をはかろうとしました。もしバレたらアブラハムはひとたまりもないところです。しかし運がよいというべきなのか、エジプトに激しい飢饉が起こり、病気も流行し、王の家でも感染して病気におかされる者が続出しました。その原因を調べると、王がサラを妻として宮殿に迎え入れたからだと判明したというのです。そこで王はアブラハムを呼び寄せて、なぜ妻を妹だと偽ったのかと責め、彼女をアブラハムのもとに戻したというのです。本来なら、捕えられて罰せられても当然と言える状況であったにもかかわらず、アブラハムは妻サラとともにエジプトの地を離れることを認められました。

◆ アブラハムはこうして再びカナンに戻ったのです。13章にはカナンの地にもどったアブラハムとロトに起こった「苦い別れ」の物語が記されています。別れの理由は財産でした。13章2節によれば、アブラハムはカナンに戻ってきた時点で、すでに「非常に多くの家畜と金銀をもっていた」というのです。甥のロトも多くの羊や牛を所有して一族の一方の旗頭になっていました。家畜が増えれば、養うための牧草地と水も多くを必要とするようになります。しかしながらアブラハムとロトがそれぞれの一族郎党を伴って戻って来た土地には砂漠が大きく広がり、牧草や泉が豊富な場所ではありませんでした。そこでアブラハムとロトは合議のすえ、それぞれ別の土地に分かれて住むことにしました。一種の協議別居です。

◆ ただしかし、驚かされることがあります。そのときにアブラハムが甥のロトに提示した別れの条件の内容です。アブラハムは家長ですから、一切の選択権はまずアブラハムに優先的に与えられ、ロトはそのあとというのが順序です。ところがアブラハムはまずロトに選択権を与え、一番よいと思う土地を選ばせ、自分は残った土地でよいというのです。ロトは東の肥沃な土地を選び、アブラハムのもとから離れて行きました。なぜアブラハムは一族の長としての力を自分に有利に使わなかったのでしょうか。エジプトでとった自らの行動への気まずさが、この肝心の場面で自分を押し出すことをためらわせたのかも知れません。アブラハムとロト、それぞれの家族や一族が生きるために住み分けなければならないのですから、致し方ない別れではあります。しかし自らの破れを自覚させられ貧しい土地に生きざるを得ないアブラハムにとっては、一番寂しい、頼りない時であったし、自分の取った行動が失敗ではなかったのかという不安に揺れる時であったに違いないのです。苦い別れでした。

◆ しかしこの場面で、再びあの言葉に私たちは出会うのです。14節です「主は、アブラムに言われた。」 イスラエルの人々の歴史を貫くこの神の言葉に再び出会います。そして神はこう語りかけます。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地すべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」 長い旅をして、多くの苦労を味わった旅の後にアブラハムが聞いた神の言葉でした。人はどこで神の声を聞くのか、神の深い思いを知るのか、そのことの深い意味をアブラハムの物語は告げているのです。アブラハムは戻るのに良い機会もあったかもしれません。けれど後戻りはしませんでした。しなかったが故に味わった苦しみ、つらさもあったと思います。しかしそういう状況に置かれたとき、一番支えを必要としているとき「生きよ」と神は語りかけられる。そしてそっと寄り添い、一緒に歩んでくれる誰かを派遣して下さるのです。

◆ 私たちが一緒に歩み、そして天上の友となったあの人は、そのようなかけがえのない隣人として傍らにいて、生きることへのいろいろな視点や助言をくれたのではないでしょうか。

2016年11月20日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2016年11月20日(日)午前10時30分
降誕前第5主日
法人同志社創立141年記念礼拝
説 教:「愛にしっかりと立つ」
同志社国際高校 山本真司
聖 書:詩編46章2~4節
  エフェソの信徒への手紙3章14-19節
招 詞:イザヤ書41章9-10節
交読詩編:50;1-6
讃美歌:26、127、22、227、91(1番)

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