SSブログ

2016年8月21日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2016.8.21  ルカによる福音書10;25-37 「憐れに思う」     平松譲二     

 座敷豚という言葉はハンセン病を患ってきた方々に使われてきた言葉です。「私たちは座敷豚と呼ばれていたんですよ。この言葉は、私たちを本当に苦しめていた言葉でした。」と、私たちに語ってくれた人がいます。元ハンセン病患者、国立療養所多麿全生園に住んでおられる森元美代治(実名)さんです。

実は宮崎駿監督の映画に「千と千尋の神隠し」という映画がありますが、この映画は多磨全生園を舞台に描かれたと、宮崎監督が森元さんに直接話されました。らい予防法という法律は、1907年から1996年までハンセン病患者を強制隔離し、患者を全滅させてこの国からハンセン病患者を撲滅することを目的としていました。そして、患者さんたちは一度療養所に入所したら、死ぬまで療養所から出ることは出来ないのです。

療養所での生活は悲惨でした。座敷豚という言葉を冒頭に語りましたが、あの映画でも主人公の千尋の両親は豚になりました。そして、入所者は故郷の家族に迷惑をかけないようにと偽名を名乗っているのですが、千尋も「千」と名乗るのでした。その映画には、顔のない人、人間とは思えない姿をした人が描かれています。ハンセン病を患った人々です。また、彼らは死ぬまで強制労働をさせられますが、映画でも働かないと生きていけない療養所の人々の姿が在りました。そして何よりも、一度入ったら出ることが出来ない、出口のない療養所の人々の姿が描かれていました。

森元さんは言います。あと40年早く予防法が廃止されていたら・・・「今80歳の在園者たちは30歳の働き盛り、私は18歳でいくらでも人生のやり直しができたのに」と、悔しくてたまらないと言っておられます。1996年にらい予防法が廃止されてから、早くも10年の月日が経ちました。以前、朝日新聞を読んでいますと、あるお医者さんが、「私は今からずいぶん前に、らい菌が感染力の弱い菌で、ハンセン病は恐ろしい伝染病ではないことを知っていました。しかし、その当時の私はハンセン病患者さんたちがこのような苦しみを受け、強制隔離されていることを全く知りませんでした。知らなかったではすまされません。知らなかったことが今日まで彼らを苦しめ、私自身が彼らを差別してきたということです。」という、投書を読みました。まさにそのとおりです。私たち一人一人が、知っていた、知らなかったということに関わらず、彼らを苦しめ、彼らの人権を奪ってきたということを認識しなければなりません。

この日本の社会に生き、教会につながる私たち一人一人が、今この時に何が出来るのでしょうか?サマリア人は差別されていました。旧約の時代はもともとユダヤ人と同じであったにもかかわらず、新約の時代にはユダヤ人はサマリア人とは交際しませんでした。その頃ユダヤ人は、家系や血統を重視してユダヤ人だけが神から選ばれた清い民族だと考え、もともと同じイスラエル民族だったサマリア人を、他の民族と混血した清くない人々なのだと軽蔑し、罪人扱いしていました。しかし、イエスはたとえ話の中で、ユダヤ人の中で最も清い階級とされていた祭司やレビ人を神の愛を実行しない人、サマリア人を神に喜ばれる人として登場させています。

追いはぎに襲われた人は、自分で助けを求めたのではありません。その力もなく、助けを求める声すらも出せなかったのに違いありません。半殺しにされ、道に転がされていたのでしょう。ただ、この人はそこを通るすべての人に見えていました。誰だって、そこを通れば道に転がっている人は目に入ります。祭司やレビ人にも当然、その人が見えていたに違いありません。しかし、彼らはこの人を「見て見ぬふり」をしたのです。いや、彼らだったら見て見ぬふりをするだろうと、イエスは当時の宗教戒律優先のユダヤ社会を批判し、皮肉をたっぷり込めたたとえ話で語っているのです。

しかし、サマリア人は違いました。見過ごしに出来ませんでした。なぜなら、その人のことを憐れに思ったからです。ここで使われている「憐れに思い」という言葉は、ギリシャ語のスプラグチノンで、「内臓・はらわた」から派生してきた言葉です。つまり、「自分自身の内臓やはらわたがキリキリと痛むほど、相手の痛みに共感する」というのが、この言葉の本来の意味です。つまり、このたとえ話の主題となっている、「隣人」とは、倒れている人の痛みを自分自身の痛みとして共感し、助けた人のことです。

このたとえ話の本質は、隣人でなかったものが隣人にとなり、その人の痛みを自分の痛みとして共感し、イエスが言うように「憐れに思う」というところにあります。そして、その人の痛みを自分の痛みとして共感し、イエスが最後に律法の専門家に言うように「行って、あなたも(サマリア人と)同じようにしなさい。」ということが一番大切なメッセージなのです。

私たちに何が出来るでしょうか。この日本の社会には、ハンセン病を患った方々だけではなく、人権をいちじるしくそこなわれている人々が数多くいます。できるかはわかりません。今私たちに出来ることは何があるのでしょうか?まず、その人々の受けてきた苦しみや痛みを正確に知ることが大切かもしれません。そして、その苦しみや痛みに共感し、イエスが言うようにそれらの人々の所にこちらから出かけていかせてもらうことが大切なのではないでしょうか。そこで、私たちに一体何がと倒れている人の傍らに寄り添ったように、互いに同じ空間で向き合って痛みを共感するだけでいいのかも知れません。

イエス・キリストの言葉が心に響きます。「あなたも行って同じようにしなさい」また、これから一週間の歩みが始まります。私たちのキリスト者としての歩みです。


2016年9月4日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2016年9月4日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第17主日
説 教:「その声はよく知っているから」
牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書
10章1~6節
招 詞:エレミヤ書50章4-5節
交読詩編:23
讃美歌:25 、202 、148、467、524、
第1編348(1番)、91(1番)

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。