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2016年7月3日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2016.7.3  使徒言行録24:10-21 「私を訴える理由」      望月修治       

◆ 西暦56年の春、パウロは約3年間にわたった3回目の伝道旅行に終止符を打ち、アジア州、マケドニア州、アカイア州などの諸教会で集められたエルサレム教会への献金を携えて、数年ぶりにエルサレムへとやってきました。しかしパウロが取り組んで来た異邦人伝道において「律法からの自由」を主張していたこと対して、保守的なユダヤ民族主義者たちは激しく反発し、パウロ暗殺の陰謀を企てます。しかしこの企てはローマの千人隊長の知るところとなり、ローマの市民権を持っていたパウロは千人隊長によってカイサリアの総督フェリクスのもとに護送されました。

◆ 5日後に、アナニヤという大祭司が長老数名、そしてテルティロという弁護士を伴ってやってきて、総督にパウロを告訴しました。テルティロはローマ総督フェリクスにパウロの罪状を述べ、さらにその人間性にも触れて「この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の首謀者であります」と訴えます。これは明らかに言いがかりであり、罵詈雑言です。「ナザレの分派の首謀者」とはイエスの流れを汲む異端者の頭であるという意味です。政治的に見れば、イエスはエルサレムで争乱を起こし十字架で処刑されたのだけれど、パウロという人物は全世界のユダヤ教に争乱を巻き起こしている者たちの頭であって、イエス以上にローマ帝国にとっても危険な人物であることを、ことさら印象づけようとして声高に訴え出ました。それに対してパウロは総督フェリクスの前で弁明をします。それが今日の箇所に記されている内容です。このパウロの弁明の中に注目すべき言葉があります。15節です。彼はこう語っています。「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。」

◆ まずここで「正しい者、正しくない者」とあるのはユダヤの律法を持っている者も、異邦人のように持っていない者も、ということですし、あるいは律法を守った者も守らなかった者も、ということでもあります。ですからこれは私たちの状況に引き寄せて表現すれば「信仰を持っている者も、信仰を持っていない者も」ということになります。また「復活する」という表現は「救われる」と読み替えてみると、このパウロの発言が含んでいる衝撃力をより身近に感じることが出来ます。「正しい者も正しくない者もやがて復活する」とは「信仰を持っている者も信仰を持っていない者もやがて救われる」ということです。

◆ これはユダヤ教の立場から見れば、完全な異端であり、神を冒涜することであり、排除しなければならないことでした。宗教は自分たちの信仰を正当だと主張します。その場合にしばしば行われるのは、他の宗教をけなしたり否定することで、自分の信じている宗教を擁護し、正当化をはかることです。しかしパウロはユダヤ教の悪口を言ってはいません。むしろ14節で「私は、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています」と言い、自分の信仰は、ユダヤ教と同じなのだと述べています。またパウロの信仰に決定的な影響を与えたイエスも、ユダヤ教の悪口は言いません。またユダヤを支配していたローマ人たちの神々の悪口も語りませんでした。むしろ逆にイエスは「わたしが来たのは律法や預言書を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:17)と語り、ユダヤ教の基本的な考え方の素晴らしさを語りました。ただし、ユダヤ教の今のありようは、本筋から遠く離れてしまっていると批判したのです。パウロも全く同じです。

◆ パウロは、ユダヤ人は救われないと言っているのではありません。ユダヤ人は救われる。でもユダヤ人だけではなく「正しい者も正しくない者も救われる」と言っているのです。ユダヤ人はそこが許せないのです。自分が救われる者の中に入っていると言われているのに、律法を守っていないあの連中も救われるよと言われると、それは許せない、そんな救い方は認められないというのです。ユダヤ人だけではありません。信仰を持っている者はしばしばこの点が気に入らないのです。

◆ 「信じる者は皆救われる」という言い方をよくいたします。その場合この言葉には「信じない者は救われないよ」あるいは「あなたが信じているのは私が信じている神様とは違うから救われないよ」ということが裏側にぴったりと張り付いてはいないでしょうか。この思いは私たちのごく素朴な受けとめ方です。「信じる者は救われる」ということは「だから救われるために信じている」という意味合いで語られることが多いのです。 けれどもパウロは「正しい者も正しくない者も・・・・」と確かに語っています。これはユダヤ人だけではなく、現代の教会に生きる私たちにも衝撃を与える言葉です。しかし心して読まねばならない言葉です。自分の側の思いこみや決めつけで読み過ごしてはならない言葉です。もし正しい者、律法を守っている者だけが救われるのなら、どうしてイエスの十字架の死が必要だったのでしょうか。イエスの十字架の死、それは私たちの罪をあがなうためであったと私たちは言います。つまり自分たちは罪人なのだと認めているわけです。それなのに一方では「正しいに者も正しくない者も救われる」「信じている者も信じていない者も救われる」そんな救い方は納得できない、許せないとつい思ってしまう。これは明らかに矛盾です。

◆ 信じることを救われための条件だと考えてしまう。信仰とはそんな薄っぺらなものなのでしょうか。生きるということはそんな取り引だけの世界に終始して終わるものなのでしょうか。命が命に出会うという事実はもっともっと深い奥行きを持っているのです。信仰は自分から作り出したものではありません。積み上げたものでもありません。聖書を勉強して達したものでもありません。ただ出会ったものに打ちのめされ、衝撃を受け、飲み込まれ、掴まえられ、信じざるを得なくさせられたものが信仰です。

◆ パウロもキリストとの出会いによってそうならざるを得なかった人です。彼はユダヤ教徒としては頂点を極めた人でした。フィリピの信徒への手紙3:5-6で自らこう語っています。「わたしは生まれて8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」その彼が「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています」と断言するのです。

◆ 誰かと出会って、自分もあんなふうに生きてみたいと思う。自分の中にそのような思いを起こす人と出会い、その人が大切にしているもの、その人を生かしている世界に自分も出会ってみたいと思う。それは救われるのなら信じるという取り引きの世界ではありません。生きることの奥深さに打ちのめされ、押し出されて歩み出す、そういう転換が起こっていく世界です。「正しい者も正しくない者も、信じる者も信じない者も救う」ために神は人間に出会い続けられます。なぜなら私たちは誰もが例外なく「正しくない者、信じない者」だからです。

2016年7月17日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2016年7月17日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第10主日
説 教:「他者の気持ちの宛先」
牧師 望月修治
聖 書:ローマの信徒への手紙
14章10~23節
招 詞:ヨハネによる福音書6章48~51節
交読詩編:77:5-16
讃美歌:24、201、56、492、91(1番)

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