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2016年6月12日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2016.6.12 こどもの日合同礼拝                           
マルコによる福音書1:13-16 「いつもいいことさがし」    望月修治

◆ イエスさまの周りにはいつもたくさんの人がいました。なぜかと言えば、イエスさまは病気の人を治したり、手足の動かなかった人が手を動かし、自分で歩けるようにしてくださったりしたので、みんなが一目見ようと思ってやって来たからです。その気持ちは分かります。そんな場面が見られるなら行ってみようって思います。あるいは病気の人が噂を聞いて治りたいと思ってイエスさまのところに行きたいと思う。家族の人や誰かに連れて来てもらうということだってあったと思います。自分の子供をイエスさまの所に連れて行って、祝福していただこうって思った人もいました。今日の箇所にはそのような人たちのことが書かれています。「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た」とあります。

◆ でもお弟子さんたちはこの人たちを叱った。「子供なんか連れて来るな」って叱ったというのです。お弟子さんたちの気持ちも分かるのです。だっていつもいろんな人が、イエスさまを見に来る。「あああれがイエスって人か」と言いながら押し寄せて来る。病気を治してください、奇跡を見せてくださいといって毎日毎日、入れ替わり立ち替わりやってくる。そんな人たちを毎日見ていて、「ああ危ないから押さないでください。ちゃんと並んでください。順番を守ってください」とそんなふうに言わなければならなかったとすれば、お弟子さんたちが子供たちを連れてきた人たちを叱ったというのも無理はないとも思えます。大事なイエスさまが押されて怪我などしてほしくないと思ったのではないでしょうか。

◆ ところがイエスさまは、そのお弟子さんたちを叱りました。そして「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」とお弟子さんたちに言いました。「これはいったい何のことなのだろう」と思います。
 イエスさまが言われる「子供」って何歳くらいなのでしょうか。大人の人に「子供の頃は」と聞いたら何歳ころのことを思い浮かべるでしょうか。中学生や高校生ではたぶんないと思います。もっと前、小学生の頃、それも高学年よりも低学年、1年生、2年生だったころ、あるいはもっと前、幼稚園や保育園に通っていた頃の自分を思い浮かべるかも知れません。ではイエスさまは何歳くらいの子供を思い浮かべながら「神の国は子供たちのような者たちのものですよ」と言われたのでしょうか。

◆ このときイエスさまは「子供たちのものだ」と言われたのではなくて「子供たちのような者のものだ」と言っておられます。神さまが神の国はあなたのものですよと言われる「あなた」っていうのはどういう人のことだと思いますか。私は、幼稚園の頃よりももっともっと前、赤ちゃんのときを思い浮かべたらいいのではないかと思っています。赤ちゃんはとっても自由です。もっとこうならなければなんて考えていません。もっとりっぱにうんちをしなければとか、もっと努力して泣かなければとか、もっとお行儀よくおっぱいを飲まなければとか、もっとにっこり笑らわなければとか、そんなこと考えていません。お腹がすけば泣くし、眠くなればどこであろうと寝てしまうし、うんちをしたくなれば、お母さんやお父さんがどんなに忙しくてもおかまいなしにうんちをします。でもそんな赤ちゃんをお母さんやお父さん、じぃじやばあば、家族だけではなく周りにいる大人たちもかわいいって言います。

◆ 神さまもそうなのではないでしょうか。そしてイエスさまもそうなのではないでしょうか。赤ちゃんを見て泣いていても、ぐずっていても、もちろん、眠っていても、笑っていたらなおさら、可愛い、愛おしいと私たちが思うように、神さまは私たち一人一人のことを思っていてくださるのですよ、とイエスさまは言っておられるのだと思うのです。今日のお話の題を「いつもいいことさがし」としました。これは「子供たちを来させない、神の国はこのような者たちにものですよ」といわれるイエスさま、そして神にとっての「いいことさがし」という意味です。神さまにとって、そしてイエスさまにとって「いいこと」というのはわたしたち一人一人なのだと思います。かけがえのない命をもって生きている、その私たちひとりひとりを神様は「大切だよ」と言って一緒にいてくださる。こんなことができる、こんな力がある、いろいろなことを知っている、それを見つけ出すという意味での「いいことさがし」を神さまはしてくださるということではなくて、私たちが生きている、今ここにいる、それを「いいこと」だよって言ってくださるのです。「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」と書いてあります。イエスさまは例えば何もできなくてもダメだとは言われません。ただそこにいてくれる、それだけで嬉しいのですよと笑顔で抱きしめ、抱き上げてくださる、そんな方なのです。

2016年6月26日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2016年6月26日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第7主日
説 教:「かもしかと呼ばれた弟子」
牧師 望月修治
聖 書:使徒言行録
9章36~43節
招 詞:ホセア書14章5~7節
交読詩編:49;13-21
讃美歌:27、21、287、289、91(1番)

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