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2016年6月5日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2016.6.5 ヨハネの手紙Ⅰ 2:22-29 「危機への処方箋」    望月修治       

◆ キリスト教会は紀元1世紀に誕生しました。ただその歩みは当初から順調であったとは決して言えません。1世紀の後半には教会にとっての危機が顕在化し始めるからです。今日はヨハネの手紙が聖書日課のテキストとしてあげられています。このヨハネの手紙と用語や概念や文法的な特徴が似ているとされているのがヨハネによる福音書ですが、この福音書は教会に訪れた危機への対応を迫られる中で生み出されました。紀元80年代から90年代にかけてのことです。当時のキリスト教が直面した危機は同胞であったユダヤ人、特にファリサイ派のユダヤ人からの迫害でした。

◆ ヨハネによる福音書から少しあと、紀元1世紀前後に書かれたのがヨハネの手紙です。この手紙も教会にひとつの危機が訪れる中で書かれました。しかしその危機はヨハネ福音書を生み出したときの危機とは違っています。ヨハネ福音書を生み出した教会にとっての危機は、ユダヤ人、ユダヤ教の側からの迫害でした。具体的にはイエスを救い主だといい、福音を信じることをやめないならユダヤの会堂から追放し、ユダヤ社会から追放するという脅迫でした。一方、ヨハネの手紙を生み出すことになった危機は教会の内部に存在する危機です。22節に記されています。「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。」「反キリスト」と呼ばれる勢力が存在するようになったことで教会を危機に追い込んでいくのです。ヨハネの手紙における「反キリスト」はキリスト者を迫害するような意味での反キリストではなく、「偽り者」あるいは「嘘つき」ということであって、そのままにしておけば教会をその内部から崩壊させてしまう動きであり、存在です。ある意味ではユダヤ教のような外からの危機よりも根が深い危機と言えるかもしれません。

◆ そのためヨハネの手紙には「偽り者」、「神を偽り者にする」という表現が重ねて記されています。少し引用します。「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」(1:10)「神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内に真理はありません。」(2:4)「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。」(4:20)「神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。」(5:10)といった具合です。これらの言葉はこの手紙を書いたヨハネの教会が直面していた危機の深刻さを伝えています。「神を偽り者とする」「神を嘘つきにする」とは厳しい表現です。神を知る知識をもっていることを人には誇りながら、愛をなおざりにする。神を愛していると言いながら、兄弟を憎み、人を利用し、人を欺く。そのようなあり方がヨハネの教会に顕在化していたのだと思います。

◆ この逆境は、ヨハネの手紙を「神が愛である」こと、そしてその神を愛することを際立って美しく語る手紙にしたともいえるのではないかと思っています。教会を内部から崩壊させてしまいかねない危機にどのように対処するのか。危機への処方箋をヨハネは「神は愛である」と表現される神の働きに見出そうとします。4章10節以下にその処方箋を次のように記しています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちのうちで全うされるのです。」 愛は人から始まるのではなく神からはじまる。愛の奥義を語った見事な処方箋です。「わたしたちの罪を償うために、御子をお遣わしになりました」とも記されています。2000年前、ベツレヘムに生まれナザレで育ち、30数年の生涯を歩んで十字架の死で生涯を閉じたナザレのイエスを救い主だと告白する。この告白からキリスト教の歴史は始まりました。十字架で死んだ人を神から遣わされた救い主だと告白する。それは人の世のならいからすれば尋常のことではありません。当時の世界にあって極刑と見なされた十字架に架けられ死んだ人を自分たちの救い主だと語る。これはイエスと出会った人々が、受けとめ、味わった喜びがいかに大きかったか、いかに深いものであったか、そしてそれが人の命をいかにあたたかくしたか、そのことを抜きにして十字架で処刑された人を救い主だと告白する者はいなかったはずです。ヨハネの手紙はこのイエスの生涯を「神の愛がわたしたちのうちに示されたのです」という表現で語っています。

◆ そのように人々が語り合い、伝えたイエスの生き方は、出会う者を大切にする生き方であったということでした。当時のユダヤ社会で罪人と呼ばれた人たちのもとにイエスは一緒にいました。そんな奴と一緒にいたら汚れると言われた人たちと席を同じくし、食事を共にしました。長く病気で苦しんでいる人、手や足に不自由さをもっている人、心に傷みをもって苦しんでいる人、いずれも当時、神の救いから外れてしまったと見なされていた人々の隣にイエスはいて、「あなたは神から招かれていますよ」と語りかけたのです。そこに「神の愛がわたしたちのうちに示された」ということの中身が見えてきます。

◆ 聖書が神を語るとき「神は愛である」と表現するのは、神様は全能だから、つまり何でも出来るすごい力を持っているから神様なのではないということを伝えようとしているからです。この手紙の4章19節に「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからです」とあります。神様はその力を、私たちを愛するために、つまり大切に支え、育むために用いて下さるからこそ、神様なのです。人を呪ったり、傷つけたり、たたりをもたらしたりするのは神ではない。だから私たちも同じです。4章20節に「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」とあります。

◆ 愛するとは互いに受け入れる体験です。互いに受け入れるとは人との関係のなかで気持ちよく生きるという体験です。イエスが私たちに示したのは「あなたはそのままでステキだ」というメッセージです。そして共にという命のあり方です。一人一人が違ったものを持っている。その違いが輝くのはつながりの中に置かれたときです。一人で個性的であることなど人には出来ません。一人一人のもつ違いが意味を持つのはつながりの中でこそそれが生かされていくことを知った時です。まず神の側から「そのままのあなたを愛しているよ」というメッセージを送って下さったのだ、それがイエスの生涯を通して私たちに示されたことなのだ、そこに神の愛が私たちの内に示されたとこの手紙が語る中身があるのです。

2016年6月19日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2016年6月19 日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第6主日
説 教:「永遠平和のために」
牧師 髙田太
聖 書:エフェソの信徒への手紙
2章11~22節
招 詞:ガラテヤの信徒への手紙3章28節
交読詩編:126
讃美歌:24、7、409、494、91(1番)

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