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2016年1月10日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2016.1.10  ヨハネによる福音書1:29-34 「誰が差し出したのか」  望月修治    

◆「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」、この言葉は救い主イエスの生涯を適確に言い表しています。語ったのはバプテスマのヨハネです。そしてヨハネ福音書が語ろうとするバプテスマのヨハネの役割を端的に示している言葉でもあります。彼はイエスの誕生より少し早く、祭司ザカリアと妻エリサベトを両親として生まれました。そして紀元27〜28年の秋にかけての頃に、ヨハネはイエスの登場に先立って活動を始めました。荒れ野を生活の場とし、らくだの毛衣を着て、腰には革の帯を締め、いなごと野密を食べ物としました。ある日神が彼に働きかけました。ルカ福音書3:2−3によれば「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」。それで彼は「バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)」と人々から呼ばれることになりました。彼の教えの要点をまとめてみると、神の裁きが近いうちに起こること、だから今までの生活を悔い改めて、神のもとに立ち帰り、そのしるしとして洗礼を受けよということでした。

◆ 加えてユダヤの人々に「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな」とヨハネは語りました。ユダヤの人々にとって、アブラハムの子孫であるということは自分たちが特別に神から選ばれた存在であることを意味していました。しかしヨハネはそのような受け止め方を否定したのです。ユダヤ人であろうとなかろうと全ての人が、地位や身分に関係なく、罪の中にある存在なのだと言うことをヨハネは強調しました。なぜならヨハネは誰もが神を忘れ、神から遠ざかり、神に逆らって自分勝手に生きていると見たのであり、それゆえ神が怒り人々を滅ぼす時が迫っているということを、彼は激烈な言葉で訴えたのです。この訴えは人々の強い関心を引き起こしました。

◆ バプテスマのヨハネはイエスのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました。この時、ヨハネは何を考え、何を思っていたのでしょうか。ユダヤでは旧約聖書の時代から小羊は、祭りの時に人々の罪を贖う犠牲として神に献げられてきました。出エジプト記29:38の記事によると、神殿の祭壇には「毎日絶やすことなく、一歳の雄羊二匹を、朝に一匹、夕暮れに他の一匹」がささげられていました。ユダヤの人々は戦争が起こっていたときも、またどんなに飢えたときでも、神殿に小羊を献げることを決して怠らなかったと言われます。ヨハネがイエスのことを小羊に譬えて語る、しかも単に小羊ではなく「神の小羊」と呼んだ理由は何だったのでしょうか。小羊は人間が自分の罪の贖いとして献げていく犠牲の動物です。しかしバプテスマのヨハネは、イエスを神が献げる小羊なのだと語りました。執り成しをしてもらわなければならない側が献げるのは分かります。しかし「神の小羊」というのは、全く逆です。執り成しをする側、罪を許す側が献げる小羊のことです。イエスはそのような意味での「犠牲の小羊」なのだとヨハネは語ったのです。

◆ ではなぜ許す側が犠牲の動物を献げるのか。そこには神の強い意志が示されています。具体的な例を挙げてみます。ルカ福音書15章11節以下に「放蕩息子の譬え話」が記されています。この譬え話の主要なポイントは父親です。そしてこの父親の姿を通して「神の小羊」という言葉で表現されことを理解できるのではないかと思いました。財産の取り分を要求して受け取り家を出て行った息子を思いやり、心配し続ける父親がこの物語のメッセージの大きな部分を担っています。この父親の姿は私たちに対する「神の愛」とはどのようなものであるのかを示しているからです。放蕩の限りを尽くしたあげく財産を全て使い果たしてしまった息子は、ボロ切れのような着物を身にまとって、空腹によろめきながら父の家に帰ってきます。するとこの父親は、いち早くそれが息子であることを見てとって、自分の方から走り寄って息子を抱きかかえ、僕たちにすぐに宴会の用意をするように命じました。イエスはこの父親の姿を通して、聖書の神がどのような方であるかを教えました。私たちがどのように罪深く、身勝手な者であったとしても、その私たちのことをどこまでも心にかけ、譬え話の息子のように父親つまり神のもとに立ち帰りさえすれば、いつでも迎え入れて下さる神なのだということをイエスは示したのです。私たちが悔い改める前にすでに神は赦す用意をして待っているのです。神の赦しが先行するのです。赦されるから私たちはやり直すことが出来るのです。この順番はたいへん大事です。やり直したから赦されるのではないのです。人がやり直すためにはまず赦しが必要なのです。そのために神は赦す用意をして待っている、それが「放蕩息子の譬え話」の重要なポイントです。洗礼者ヨハネはイエスを指して「神の小羊」だと言った。許す側が差し出す犠牲なのだと言った。それはこのことを示しているのです。人がやり直すためには赦しが必要であり、そのための赦しを神は用意して待っておられる、それがイエスを「神の小羊」とヨハネが呼ぶ理由です。

◆ この譬え話にはもう一つ大事なことが書かれています。どん底まで落ちたこの息子が父の家に帰ろうと決心したとき、この息子の心に決定的な「悔い改め」の思いが湧き起こったということです。15:18「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」この悔い改めの思いを抱いて息子は父の元に帰ったのです。ところが父親は息子に言葉を発する間も与えず、息子のもとに走りより、息子を抱きしめました。その後で息子が悔い改めの言葉を語る様子が描き出されています。

◆ この物語の大きな転換点は、息子の「悔い改め」への目覚めにあります。そして「悔い改め」は先行する神の赦しに対する応答として位置づけられていることが大切な点です。悔い改めは父親の受けとめがあった後で語られます。悔い改めなければ神に赦されないのではなく、神の赦しがすでにある、だから帰れというのです。この順番を大事にしたいと思います。人が生きる道は思い通りにはいきません。私たちに必要なのはそのような現実を見据えて、判断するための土台、何をすべきかを見極めるための指針です。聖書は「戻る」ことだと語るのです。神のもとに戻ることだというのです。赦されているけれども、しかし赦しを与える神のもとに帰らなければなりません。立ち戻るという応答を求められています。与えられることだけが強調される信仰は人を生かしません。応えることが人を生かすのです。神の小羊としてのイエスの歩みは、神のもとに立ち帰るという応答を促します。

◆ この「放蕩息子の譬え話」の少し後(17:11以下)に、重い皮膚病を患っている十人の人をイエスが癒したという出来事が記されています。この物語の結論はこうです。癒された十人は大喜びで帰って行くのですが、感謝を述べるために戻ってきたのはひとりの外国人だけであった。イエスはその人にこう言いました。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」この宣言は立ち帰るという応答に対してなされたものです。神の小羊としてのイエスの生涯は、神の赦しを伝えると共に、その赦しを与えた神のもとに、感謝を述べるために帰って行くことを求めているのです。たとえ放蕩息子のようにぼろぼろになって帰ってきても、「あなたの信仰があなたを救った」と神は言ってくださるのだというのです。ですから私たちは、週の初めに神のもとに帰る証しとしての礼拝を献げることを大切に歩みたいと思います

2016年1月24日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2016年1月24日(日)午前10時30分
降誕節第5主日
説 教:「同行不可能」
         牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書
8章21~36節
招 詞:ヨブ記22章25~28節
讃美歌:27、15、458、521、91(1番)
交読詩編:125

※次週の礼拝は、女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。寒い日が続いておりますので、ご自愛くださいませ。

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