SSブログ

2016年1月3日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2016.1.3. ヨハネによる福音書1:14-18「ことばの宿」   望月修治        

◆ 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1:14)、ヨハネは独特な表現でイエスの誕生を書き記しました。そしてその「言」は「わたしたちの間に宿った」と語っています。イエスの誕生、救い主の誕生という出来事はわたしたちの間に起こったのだというのです。だとすれば人と人との間を見据えることによって、誰かと一緒に生きることによって、イエスが救い主であると言われる理由が分かるということになります。

◆ 私たちは他者とのつながりの中でさまざまな「間」を作り出しています。生きるということは「間」をもつ、あるいは隙間をもつということだと言えます。しかし隙間が大きくなりズレが広がってしまうと、「すきま風が吹く」といった表現がなされます。ですから、隙間というのはあまりよいイメージとは言えないかもしれません。けれども、見方を変えれば、誰かと何らかのつながりをもっているからこそ隙間を感じることができるのです。大事なのは、その隙間を「いや人間なんてそんなものさ」といってそのままにしておくのか、おかないのかです。ただその隙間を埋めるための努力、心遣いは疲れるのです。しかしその努力を、心遣いを死ぬまで貫いた人がいました。十字架につけられて殺されてしまう、その最後までずっと続けた人がいました。ナザレのイエス、救い主と呼ばれたイエスです。十字架にかけられ処刑された人間と「救い主」、この二つは普通重なり合いません。両者の間には大きな隙間、ズレがあります。しかしこの隙間、ズレから神は自らの意志、決断を私たちに示したのだと聖書は語るのです。

◆ 聖書は人に向かって「共にいなさい」と呼びかけています。そして人と人とが共にいるときに互いのあいだに生まれる<隙間>に大切な意味があることを教えています。ルカによる福音書17章20-21節に次のように記されています。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」 イエスはこのときファリサイ派の人々が「神の国はいつ来るのか」と尋ねたことに対して答えたのです。ここで「あなたがた」とはファリサイ派の人々のことです。これは大変興味深いことです。なぜなら、ファリサイ派の人々というのは、やがてイエスを十字架につけ殺してしまう人たちだからです。その人々の間でこそ、神はその働きを示すということだからです。

◆ この箇所はしばしば引用されます。「神の国はあなたがたの間にある」というイエスの言葉を読んだ時に、この「あなたがた」をどのようにイメージするでしょうか。自分は含まない、他の誰かと誰かのことだという読み方はしないと思います。「あなたがた」の一方にはまず自分がいて、その自分と誰かの間に、というふうに受けとめるはずです。その場合に自分をファリサイ派の人たちと同じだなどとは思いません。「あなたがた」というのを悪いイメージでは受けとめていないからです。多少の落ち度はあり、欠点もあるかも知れないけれども、そこそこ善い人間である者どうしの間に神の国はあると読むのではないでしょうか。ですからこの箇所を読んで「ああ私たちの間にも神の国はあるのですね」と語り合っている時に「じゃあ、あなたがたもファリサイ派の人たちと同じということですね」と言われたら「何と失礼なことを言うのか」と不愉快になってしまう一人一人ではないでしょうか。

◆ しかしイエスは確かにファリサイ派の人たちに向かって「あなたがたの間に神の国はある」と語ったのです。だとすれば、これは人が信仰とか宗教というときに、ある種当然のことのようにもってしまうことの多い意識に向けられた問いかけです。神の国とは、私たちが自分の力で獲得するものではなく、また私たちにふさわしい資格があるから与えられるものでもない、その点についての自覚をイエスはここで求めているのです。自分たちはファリサイ派の人々とは違う、だから私たちの間に神の国はあるのです、と受けとめてしまう私たちに「神の国はあなたがた、すなわちファリサイ派の人たちの間にある」とイエスは言い、人間というものはみな、そう大した違いはないのだというのです。

◆ 来々週の日曜日は兵庫県南部大地震が起こって21回目の1月17日です。当時、大地震から二ヶ月ほどたった日の新聞に「無力な自分を自覚し始まる」という投書が載っていました。枚方市に住む、当時41歳の医師・飯田直宏さんが書かれた一文です。「確かに街はつぶされていた。道路をふさぐようにして倒れている家、二階があたかも1階のように押しつぶされた家々。何かをしなければならない、テレビを見ていてそう感じた人は多かったはずだ。すぐさま行動に移した勇気ある人々がたくさんいた。しかし多くの人はその思いを持ったまま、地団駄を踏んでいたのではなかっただろうか。ボランティアなど単に自己満足だけだとか、何も出来ない人間が行けば邪魔になるだけだ、などと水を差す人がいる。しかしそうとは分かっていてもじっとしていられず、現地に行きたいという素直な気持ちの人もいる。私も若い人に交じってボランティアに参加したが、持病の腰痛のためあまりお役に立てず、仕事を離れては全く無力な自分を恥じた。しかし後日、医師として再び現地に入った時、少しはお役に立てたのではなかったかと思っている。何事も自分の無力さを自覚することから始まるのである。今回のボランティア活動での自分を反省して、もっと自分を大きく生かす道を考えようではないか。安楽な場所で空論を述べて満足している臆病者にならないために。」

◆ 「神の国はあなたがたの間にある」とイエスが語ったその<間>を作り出していく私たちお互いどうしはどんな存在なのか、それをイエスは「ファリサイ派の人々」に象徴させる形で示しました。<間>を作り出すお互いは、飯田さんの言葉を借りるならば「全く無力な自分を恥じ」ざるを得ない存在でしかないのです。しかしなお「何事も自分の無力さを自覚することから始まる」と言いうるとすれば、それは単に心構えの問題とか気持ちの持ち方の問題ではなく、無力を恥じざるを得ないお互いが作り出す<間>に神が働いて下さるからです。私たちが何事かをなしえたから、そのことへの見返りとして神が<間>にいてくださるのではなく、無力を恥じざるを得ないお互いであるけれど共にあることで生まれる<間>に神が働きかけてくださるから、何事かをなすことが出来る、「自分の無力さを自覚することから始」めることが出来るのです。

◆ 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」この「わたしたち」とはどのような存在なのか。福音書記者のヨハネはこの「わたしたち」のことを暗闇と表現しています。5節「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」 また次のようにも述べています。10節「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」11節「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」 ヨハネが「暗闇」あるいは「世」と表現した存在、光を理解しない、言を認めない、そのような私たちの間に、神は救い主を送られたのです。自分が立派だから、私たちの間に神は働いて下さるのではないのです。もしそう思っているとしたら、人のそういう思いを神は打ち砕きます。「光を理解しない闇」「言を認めようとしない世」それがわたしたちなのだとヨハネは断言するのです。そのことへの自覚が深くなるとき、闇に輝く光とヨハネが記した神の独り子の誕生は、私たちにとってかけえがえのない命の光として輝きを命の深みにもたらす出来事となるのだと思います。

2016年1月17日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2016年1月17日(日)午前10時30分
降誕節第4主日
説 教:「来なさい、そうすれば分かる」
         牧師 髙田 太
聖 書:ヨハネによる福音書1章35~51節
招 詞:ヨブ記23章2~5節
讃美歌:24、10、504、516、91(1番)
交読詩編:125;1-5
※次週の礼拝は、こどもの教会、主日礼拝共に神学館チャペル(同志社大学今出川キャンパス内3階)にて行われます。お間違えのないようにお覚え下さい。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。