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2015年11月8日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2015.11.8  創世記12:1-9 「更に旅は続く」    望月修治            

◆ 「人生はひとつの旅である」と言われますが、人は旅にいろいろな思い入れを持ちます。聖書に登場する人物も、その多くが旅人でした。その原型となっているのが、アブラハムです。アブラハムはユダヤにおいて「信仰の父」と言われていますが、その生涯は旅に始まり旅に終わっているといってよいと思います。創世記の記述によれば、アブラハムはユーフラテス川下流のウルの出身で、そこからまず上流のハランという所に移住し、続いてカナン(現在のパレスチナ)地方に向かっています。その後エジプトにもしばらく滞在しています。それは当時としては壮大な旅の人生でした。
◆ アブラハムはなぜそのような旅をすることになったのか。その理由が記されているのが今日読んでいる箇所です。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。』」 アブラハムは慣れ親しんでいた土地から、まったく何も知らない地へと出発するように、神から命ぜられたというのです。この時の神の言葉は奇妙ではないでしょうか。その奇妙さは原文の語順をそのまま訳してみるといっそう明らかになります。1節の神の言葉「あなたは生まれた故郷、父の家を離れて、わたしの示す地に行きなさい」これを原文の順番通りに訳すとこうなります。「行きなさい。あなたのために、あなたの地から、あなたの親族から、あなたの父の家から、わたしがあなたに示す地に向けて。」
◆ ふつうどこかに行くように指示を与えるときには、離れる場所ではなく、行くべき場所を詳細に語るはずです。例えば先週、永眠者記念礼拝を守りました。そして午後からは右京区にある鳴滝霊園の同志社教会墓地に出かけ墓前礼拝を行いました。鳴滝霊園の場所は分かりやすいとは言えないのですが、鳴滝霊園に向かおうとする人に、「お出かけ下さい、栄光館から、同志社女子大学の正門前から、京都御所沿いの今出川通から、鳴滝霊園に向けて」とは言わないはずです。そうではなくて今出川通を東に進んで、堀川通り、千本通りを横切って円町から更に東へ行って、仁和寺の前を通って、福王寺の交差点を清滝方面に曲がります、という具合に行くべき場所への道順を詳細に語るのが普通です。しかし12章の冒頭の文章では、行くべき場所はごくあいまいに「わたしはあなたに示す地に向けて」で終わらせて、そのかわり、離れるべき場所については3度も言い換えて、強調しています。それも「あなたの地」から、「あなたの親族」、そして「あなたの父の家」というように、広い概念から狭い概念に絞り込むように並べられています。紀元前2000年、当時の社会は大家族制をとっていましたから、三世代がひとつの家族を構成しており、それが「父の家」と表現されていました。ですから「父の家」といえば、社会を構成する最小単位ということになります。

◆ ではなぜ、離れる場所がこれほどに強調されているのでしょうか。それは創世記の1章から11章までの構成と関係があると思います。創世記は天地創造の物語から始まり、エデンの園でのアダムとエバの物語、兄が弟を殺してしまうカインとアベルの物語、ノアの洪水物語、そして11章のバベルの塔の物語と続きます。そこでは世界の存在の意味、お互いがふさわしい助け手として生きるようにという人間のあるべき姿、しかしそのようには生きられない人間の現実、神の領域にまで達しうると考えて奢り高ぶってしまう人間の有り様、その根本的な原因はどこにあるのか、この世界とそこに生きる人間を巡る根源的な事柄、人類の罪の問題が神話という形で物語られています。「罪」という言葉はヘブライ語(ハッタート)でもギリシア語(ハマルティア)でも「的はずれ」、弓から放たれた矢が的に当たらずに何処かへ飛んで行ってしまう空しさを表す言葉ですから、神の思いにかなっていないこと、神から離れてしまっていること、そういう状態をさしています。神など必要ないと言うこと、それは人間だけで生きていけるという過信に陥るということです。このような過信は放っておけば人間に自然に沸き起こってくる思いです。

◆ ですから対策が必要なのです。自覚的に生きるということが求められるのです。聖書はそれを、人間を超えた存在に対して畏れをもって歩むことにあると語るのです。しかしそのような畏れをもつという生き方は、文化が進めば進むほど、つまり人間の手が造り出すものが増えれば増えるほど、難しくなります。人間の造り出すものが神の働きを隠してしまう、見えなくしてしまうからです。見えないものの大切さを知る体験、人の痛み、哀しみ、苦しみに共感する心が失われてしまうからです。
そこで神はアブラハムを「あなたの地から、あなたの親族から、あなたの父の家から」離すことを決意したのです。アブラハムの物語は人間が互いを見つめ合うだけのつながり、自分たちだけで生きていけるという思いに留まることにとどめを刻み、「神が示す地」に向かうつながり、神を結び目として一緒に歩むつながりを作り出すことによって、的外れの生き方を整え直す道を明らかにしようとしたのです。

◆ アブラハムは「行きなさい」という神の言葉を受けとめて「父の家から」出て、旅立っていきました。ですからアブラハムに父の家を捨てさせたのは、アブラハム自身の決断ではなく、神の呼びかけに応えたからです。聖書はこのような旅立ちを「召命」と呼びます。聖書に登場するイスラエルとは、語りかける神の呼びかけによって生み出されたつながりであり、神を結び目として共に歩む、その生き方を証しする務めを託された人々の共同体なのだというのです。

◆  聖書に語られている召命という出来事の力点は、人間の側の努力ではなく、神の呼びかけに置かれています。聖書にとって人間が何を捨てるかは二次的な課題であって、大事なのは何かを捨てたくなるほどに、呼び出され、召しだされてしまったという体験です。この体験が人間を変えてゆきます。神の呼びかけに応えること、あるいは信仰を持つということは、それまでの生活の中に新しいものが加わる、新しいメニューが追加されるというイメージではなく、全体が新しくされるということです。アブラハムがハランを離れてパレスチナへと移住するという距離の移動の大きさは、その根本的な変化を具体的なイメージとして表しています。 生き方が丸ごと転換するということは、自分の立ち位置を受ける側、愛される側に置き続けるのではなく、愛する側、迎える側に置き直してみることです。自分の立つ位置を変えていくときに、見えるもの、気付かされるものがあります。そしてそこにこそ神は本当に豊かなものを備えておられるのです。立つ位置を変えたときに聖書の物語は私たちの中に本当に新たな光を投げかけるものとして、立ち上がってくるのです。

◆ 光原百合さんの「八方ふさがり」という詩には視点を移した時に味わった気づきの体験がうたわれています。。
「八方ふさがりで/どうしようもないと思えたとき/途方にくれて天を見上げた/すると/八方ふさがりなのに/そこはちゃんと開いていて/青い空が見えた/そこから差し伸べられた/大きな大きな手に/私はつかまって/八方ふさがりから/すくい上げられた」

2015年11月22日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2015年11月22日(日)午前10時30分
降誕前第5主日 
法人同志社創立140年記念礼拝
説 教:「会衆派教会の証し人」
     神戸女学院大学教授 飯 謙
聖 書:コヘレトの言葉9章10節a
(旧約p.1045)
招 詞:ガラテヤの信徒への手紙
5章13~14節
讃美歌:28、837、227、402、91(1番)
交読詩編:25;1-14(p.26 上段

※次週の礼拝は同志社大学今出川キャンパス内の同志社礼拝堂で行われます。お間違えのないよう、お覚え下さい。
なお、次週は法人同志社と同志社教会の共催となります。どなたでもお越しください。

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