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2015年11月8日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2015.11.1 ヨハネによる福音書11:17-27 「もうひとつの復活物語」 望月修治    

◆ 作家の椎名麟三が『私の聖書物語』という本に、自らの復活体験のことを書いています。椎名麟三は1950年のクリスマスに、牧師の赤岩栄から洗礼を受けます。しかし聖書は読んでもわからない、救ってくれない、跳ね返されるばかり、そんな状態が続いていました。洗礼を受けて2、3ヶ月たったある日のことです。その日も椎名は聖書を読んでいました。聖書の中でも「一番バカらしい」復活のくだりを読んでやろうと思い、マタイ福音書の復活場面から、突っ込みを入れながら読んでいきます。マルコ福音書では復活記事は余計なもののように括弧でかこんである。椎名はイライラしてきました。次にルカ福音書の24章を開きました。このときになると、聖書を読むことが本当にバカバカしくなって「この箇所の意味は何だ」と考えたりもせずに、「こうなったら仕様がないから、そのまま素直にこの個所を読んでやろう」と思いました。イエスが焼き魚をむしゃむしゃと食べられる場面を読んでいた時でした。予期せぬことが椎名の中に起こります。その時のことを次のように書いています。「そうして、彼(椎名)は、弟子やその仲間へ向かってさかんに毛脛を出したり、懸命に両手を差しのべて見せているイエスを思い描いたのである。ひどく滑稽だった。だが、次の瞬間、そのイエスを思いうかべていた頭の禿げかかった男は、どういうわけか何かドキンとした。それと同時に強いショックを受け、自分の足もとがグラグラ揺れるとともに、彼の信じていたこの世のあらゆる絶対性が、餌をもらったケモノのように急にやさしく見えはじめたのである。彼は、自分が信じられなかった。彼は、あわてて立ち上がって鏡へ自分の顔をうつして見た。だが、それはまるで酔っぱらったように真赤にかがやいていて、何かの宝くじにでもあたったような実に喜びにあふれた顔をしているのであった。彼は、その鏡のなかの顔を仔細に点検しながら友情をこめて言った。『お前は、バカだよ。』しかし不思議なことには、その鏡のなかの顔は、そういわれてもやはり嬉しそうにニコニコしていたのであった。」

◆ 椎名はこれまで死ねば一切は終わりであり、死を超えるような希望は絶対ありえないと思っていました。ところがイエスは、確かに死んでしまったのですけれども、そんな絶対的な死の壁などないかのように、ひょっこり弟子たちの前に現れ、あっけらかんと、自分の体を「ほら、見てごらん」と見せている。こうして椎名はイエスとともに、これまで経験したことのない喜びをもって、絶対的と思われた死の壁を簡単に飛び越えるという体験をしたのです。それまで飽きるほど聖書を読んできました。でも聖書は退屈な意味のない書物でした。しかし、この日初めて、椎名は聖書の「ことば」に出会ったのです。聖書は人間のいのち、その生と死への深い納得をもたらすべく、神の物語を語るのだと改めて思いました。

◆ 今日の箇所は「ラザロの復活」として知られている出来事が記されています。舞台はベタニアです。この物語はベタニアの村にマリア、マルタ、ラザロという兄弟姉妹がいて、ラザロが病気で、しかもその状態は重篤であるということがイエスに知らされるというところから始まります。17節以下は、物語の第二幕あり、イエスがラザロのもとに到着するところから始まります。ただしイエスがラザロのもとを訪れたのはラザロが亡くなって4日もたってからでした。イエスはラザロの危篤の知らせを聞いてから、なお2日間動きませんでした。その間にラザロは死んでしました。マルタとアリア、彼女たちにとってベタニアの村へのイエスの到着は明らかに遅すぎる到着でした。ラザロが死んで墓に葬られてから4日たってからイエスがベタニアにやってきたということは、ラザロの死が確定した後にイエスはやって来たということを何よりも強調することになります。この時間の経過をヨハネが念を押すように書き記したのは、人の死の奥行きを示したかったからではないかと思います。

◆ マルタがイエスに問いかけた言葉がその案内役を担っていると思います。ベタニアの村にやって来たイエスを出迎えた時、マルタは言うのです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でもかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 このマルタの言葉はどこにポイントを置くかによって異なった意味を見せてくれます。あなたがいてくださったならばラザロは助かったかもしれないのに、もう死んでしまった、もうだめですという諦めとも読めます。あるいは、あなたは死にも打ち勝つ方なのだから、どうぞこれからお祈りをしてください。ラザロを呼び出して下さい、と言っているとも読めます。もうひとつの読み方があります。ユダヤの人たちは一番大事なことを最初に記します。そのことを踏まえるなら、原文でも最初に記されている「主よ、もしここにいてくださいましたなら」という言葉にも思いめぐらすべき意味、マルタのお思いがあるのではないでしょうか。ラザロが死の時を迎えようとしている。その最後の時、イエスも一緒にいてほしかったと願ったのではないかということです。

◆ イエスとラザロ、イエスとマルタおよびマリアとの関係はとても深いつながりでした。愛する家族の死は耐え難い。そのような時、深いつながりのある者に一緒にそばにいてほしいと人は願います。マルタはラザロが死んでしまうことを予感したとき、何を望んだのか。自分たちのことを愛してくれている者、他の誰がいなくても、イエスにはそばにいてほしい、そう願ったのではないのか。人は、神はここにはおられないとふと思ってしまうような悲しみ、悩み、絶望を体験する。そんなとき、神はここにも働いておられることを確認したい、納得したい、そのためのしるしや出会いや出来事に出会わせてくださいと願う。マルタの言葉に宿るのはその願いではないでしょうか。

◆ マルタの思いにイエスは答えます。「あなたの兄弟は復活する。」このイエスの言葉にマルタは打てば響くように答えます。「終わりの日の復活のときに復活することは存じております。」 イエスはマルタの言葉にまたすぐに答えます。「わたしは復活であり、命である。」 不思議な言葉です。「わたしは復活である」とはどういうことか。その明確な解釈が27節のマルタの言葉です。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 原文は「はい、主よ、わたしは信じます。あなたがメシア・神の子・この世に来られた方であることを」という言葉の並びになっています。「この世に来られた」とは「人となった」ということです。人となったということは、イエスも死ぬということです。イエスは死なないのではなく、死んでその死を突き破る。死に向こうに生きる命を神は約束した上で、地上での命の終わりがあるという現実を「キリストの死」において示す。「わたしは復活である」という言葉には、その事実が込められています。

◆ 26節「わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」「決して死ぬことはない」とは、肉体にいのちがいつまでも生きるということではない。死という出来事も神とともにある、死を終わりとはしない神の働きが死という時の節目に確かに刻み込まれるのです。そして「このことを信じるか」とイエスはマルタに問いかけているのです。そして私たちにも問いかけられています。

2015年11月15日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2015年11月15日(日)午前10時30分
降誕前第6主日
説 教:「啓かれる神の姿」
 牧師 髙田 太
聖 書:出エジプト記3章1-15節
(旧約p.96)
招 詞:出エジプト記6章6b―7節a
讃美歌:25、83、56、405、91(1番)
交読詩編:105;37-45(p.116下段)

※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。
木々の葉が色づいてきました。御所の木々もきれいな色づきを見せています。
礼拝にお出かけの後、御所の散策などされてみてはいかがでしょうか。
朝晩、冷え込みますので、どうぞご自愛くださいませ。

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