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2015年10月11日の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2015.10.11 フィリピの信徒への手紙1:1-11 「キリスト・イエスの日までに」 髙田太                  

◆パウロがフィリピを訪れたのは、第二次宣教旅行の最中であった。最初の宣教旅行の同志であったバルナバとの対立により、アンティオキアを飛び出すような形で出発したパウロは、エーゲ海に面する港町トロアスに至る。そこで、パウロは幻の中でマケドニア人からの願いを聞き、船でエーゲ海を渡り、このギリシャ北東の町フィリピを訪れる。紀元49年から50年頃の話である。そこでパウロは騒動に巻き込まれて投獄の憂き目に遭ったが、しかし幸運な出会いに恵まれて、リディアという婦人の家に教会の確固たる礎石を築くことができた(宣教旅行道程については新共同訳聖書の地図を参照)。

◆その後、パウロはフィリピから旅を続けるのであるが、その道は実に厳しいものであった。テサロニケでは教会の基礎を築くことに成功はしたものの、これをよく思わないユダヤ人達に襲撃され逃げるようにベレアへ出発し、ベレアでもユダヤ人達の追撃を受けてここを離れざるを得なかった。そうして次に訪れたギリシャ哲学の重厚な伝統を有する都市アテネでは、人々がパウロの言葉に耳を傾けることはなかった。パウロはこのアテネで一人の信徒も生み出すことができず、不安と恐れの中でコリントにたどり着いた時のことを回想し、「衰弱していて、恐れに取り憑かれ、ひどく不安であった」(1コリ2.3)と書いている。

◆第二次宣教旅行におけるパウロの目的は、ギリシャ本土に教会を打ち立てることであった。母教会とも言えるアンティオキアの教会の主要人物だったバルナバと、異邦人宣教に関する意見や宣教の計画を巡って対立し、ギリシャにこそ宣教すべきだとして教会を飛び出したパウロは、そこで何らの成果を収めずして、おめおめとアンティオキアに帰ることはできなかった。このパウロの厳しい状況を支え励ましたのが、生まれたばかりのフィリピの教会であった。パウロは、「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました」(4.15-16)と語っている。状況が厳しければ厳しいほどに、そこに寄せられてくる援助というものは深く心に刻まれる。パウロのフィリピの教会に寄せる信頼にはこうした背景があった。

◆失意の内に訪れた大都市コリントで、パウロは同志との幸運な出会いに恵まれ、そこに確固たる教会の礎石を築くことができた。51年から1年半の間そこに留まり、生まれたばかりの教会を育て上げた後、コリントを後にしたパウロは、誓願成就の徴としてその髪を切っており、このコリントでの成功が宣教旅行の目的成就であったことがわかる。こうして母教会であるアンティオキアに凱旋し、しばらくの時をここで過ごした後、パウロはまた第三次の宣教旅行に出発するのである。

◆第三次宣教旅行においてパウロが宣教の拠点として長く滞在したのはエフェソである。53年から55年頃までおよそ二年間、滞在したと考えられている。そしてこのエフェソから、パウロがおそらくは三度に分けてフィリピの教会に宛てて記した手紙を一つにまとめたものが、今わたしたちが手にしている「フィリピの信徒への手紙」である。

◆はじめに、4章10節以下の部分が送られた。パウロが近くのエフェソにいることを知ったフィリピの教会の人々は、かつてのようにパウロに「もののやり取り」の支援を送ったのであろう。先の訪問からおよそ3年を経て、再びフィリピから寄せられた支援を前にして、第二次宣教旅行の厳しい経験を思い起こしながらパウロは深く感謝して手紙を記した。この手紙をフィリピへと送った後、パウロはエフェソで投獄されることになる。与えられた箇所はその監禁の最中に記されたと考えられる。

◆この時の監禁は、パウロに、場合によっては死をも予感させるものであった。1章21節では「死ぬことは利益なのです」、また23節では「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しております」と語っており、2章17節に「わたしの血が注がれるとしても」と記されてもいる。第一コリント書でパウロは「エフェソで野獣と闘った」とも書いているからそうしたことがあったのかもしれない。

◆こうしたパウロの歩みと状況とを念頭におけば、今日の箇所の全体に響いているパウロの教会に対する信頼とその温かい語り口はよく理解できるものである。ここで問題は、「キリスト・イエスの日」が何を意味しているか、なぜパウロが温かい信頼の中で流れるように、「最後の審判」を意味するこの厳しい主題に言及しているのかということである。一方で自らの終わりの日が予感される中で、パウロはこの愛する教会に対し、残されたあなたがたは「キリスト・イエスの日までに」よい業を成し遂げて欲しいと述べている。これはどういうことであろうか。

◆ここでは二つの終わりが意識されている。一つは地上での生の終わり、もう一つは世の終わりである。最後の審判にせよ、死後どうなるかにせよ、いたずらに人の関心を引き、また思弁や想像力をかき立てるような主題である。第一テサロニケ書が告げていたように、世の終わりが近い、自分たちが生きている間にこれが到来するというのは、初期キリスト者たちの確信するところであった。そうした緊張感と確信は人に独特の生活態度を強いる。しかしわたしたちはここで「本当に重要なことを見分け」なければならない。パウロは第一テサロニケ書4章で「キリスト・イエスの日」について自らに伝えられたところを語りながら、しかしそのすぐ後で、その日がいつ来るかという詮索が無意味であることを諭した。とはいえ、その裁きの日が来ること自体をパウロは否定しはしなかった。それは、この裁きの日の、終末の到来の希望こそが、キリスト者の真の希望であり目標であるからだ。

◆パウロは自らの死後もキリストと共にいることのできる確信を、或いは信仰を持つことができていた。しかし、同時に、生きればフィリピの教会の人々をもっと励まし、もっと信仰を深めることができるという事実に板挟みの状態で葛藤していた。ここから分かるのは、パウロが死の予感の中で、実にこの時も、2章16節にあるように目標を目指して走り続けているということである。パウロの目標はキリストの日であった。それは死後に訪れるかもしれない。しかし、その日がいつ来るか、そしてまた自分がいつ死ぬかは問題ではない、むしろその目標を視野に収め、しっかりとその方向を向いて、「本当に重要なことを見分け」て走ることが問題なのだと、パウロは初期キリスト教の伝承を等閑視して言うのである。そして、そのように走りつつ得られるキリストと結ばれてあることの確信が、その信仰が、審きの日を恐るべきものから、むしろ、希望されるべきものとする。なぜならば、走る中で「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受け」ることのできる確信もまた、同時に与えられるからである。そうであればこそ、パウロは自らと共に走ると信じるこの教会への温かい挨拶の中で、流れるように「キリスト・イエスの日」について触れることができたのである。

◆実際パウロは、長い宣教の道を走り抜き、そこに多くの教会を生み出した。今日その教会に連なるわたしたちもまた、パウロのように目標を目指して走らねばならない。それは、裁きの日において義とされるように、善い業に励み、知る力と見抜く力とを身につけ、愛を益々豊かにすることである。この教会の営みにおいて、共に励まし合いながら、パウロのように走るものでありたいと願う。

2015年10月25日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2015年10月25日(日)午前10時30分
降誕前第9主日
説 教:「神のかたち」
 牧師 望月修治
聖 書:創世記1章1-5、24-31節(旧約p.1)
招 詞:コロサイの信徒への手紙
1章15―17節
讃美歌:29、149、527、363、91(1番)
交読詩編:104;19-24(p.114上段)

※次週の礼拝は栄光館ファウラーチャペルにて行われます。また礼拝後には、ファウラーバザーがもたれます。
どなたでもおいでください。

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