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2015年9月13日の説教要旨 [主日礼拝のご案内]

説教要旨2015.9.13  コロサイの信徒への手紙3:12-17 「人を見下ろさない生き方」      

◆ コロサイの信徒への手紙は冒頭に「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから」と差出人の名前が記されていますが、しかしこの手紙はパウロの書いた手紙ではなく、弟子の一人がパウロの名によって書いた手紙であろうと考えられています。弟子の一人というのは、1:7および4:12に名前が記されていますが、エパフラスという人であったと思われます。コロサイの教会の信徒たちは、おそらく大半が異邦人でした。コロサイの教会はユダヤ人以外の人たちで構成されていたということです。パウロの協力者であったエパフラスを通じて福音を伝えられ、イエスを救い主と信じた人たちです。コロサイの人たちにイエスの福音を伝えたのは、パウロではなく、エパフラスです。そしておそらくエパフラス自身もユダヤ人ではなく、コロサイ出身の異邦人の一人でした。コロサイの信徒への手紙は4章しかない短い手紙ですが、この手紙が書かれた理由は、エパフラスを通してコロサイの町の人たちに伝えられたイエスの福音を信じていた人たちが、他の教えに引きずられて行って、教会の存立が危機にさらされるという事態が起こったため、その基盤を立て直すためであったと考えられています。

◆ 揺れ動いていたコロサイの信徒たちに、この手紙は、キリストの福音を受け入れて歩むことを「古い人」から「新しい人」へと転換することとして語り、そのことを衣服の着脱に譬えています。9−10節です。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」とあります。「古い人」とは、3:5以下によれば、「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」さらには3:8「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」、3:9「うそ」を、まるで服を着ているかのように身につけて生きている人のことです。それに対して「新しい人」とは3:12「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」、さらには3:13「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合」うというあり方を、服を着ているかのように身につけて生きる人のことです。そしてそのように生きることを大切だとする根拠として、「主があなたがたを赦してくださった」からだという事実を示します。そしてさらにそのことすべてに加えて「 愛を身につけなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」と語ります。

◆ 「新しい人」の特性としてあげられていること、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合う」こと、そのひとつひとつは、いずれもつながりを作り出すことを促し、育もうとする心の姿勢であり、そのための具体的な生き方、命の用い方です。そこにはイエスの生き方をコロサイの信徒たちに伝え直したいという思いが込められています。イエスは、人の子は「仕えられるためではなく仕えるために」(マタイ福音書20:28)来たと語りました。また自ら弟子たちの足を洗って「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」(ヨハネ福音書13:14)とも語りました。このイエスの姿をこの手紙は「新しい人を着る」と表現しました。イエスが「仕える」と語るとき、そこには深い覚悟があります.人を見下ろさないという生き方を貫くという覚悟です。そのことをパウロはフィリピの信徒への手紙で次のように書き記しました。「キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(2:6-7)神と等しいものであることに固執せず、人間と同じ者になったとは、神と人間との関係を人間同士の関係に持ち込まないということだと思います。神と人間との関係においては、人は神と対等な存在なのではなく、人は神に従う存在です。この神と人との関係、主従関係を人間同士の関係に持ち込まない。どちらが上でどちらが下かという関係を持ち込まないということです。言うまでもなく人間は神ではありません。言い換えれば誰かの上に立って見下ろすことができる存在ではありません。その点を思い誤ってしまうと、憎しみや排除や差別が生まれます。私たちの生きている社会には、しかしこの思い誤りがあふれています。ある人が「仕える」という言葉を「心を合わせる」と訳していました。素敵な訳です。それが「新しい人を着る」という生き方なのだと思うのです。

◆ 「くちびるに歌を」という中田永一さんの小説があります。長崎県五島列島のある中学校に、産休に入る音楽教師の代理で赴任していたピアニストとその中学校の合唱部の生徒たちとの1年間の日々を描いた作品です。2014年に新垣結衣さんの主演で映画化され、今年の春に公開されました。映画は原作とはちがった作りになっているのですが、東京でピアニストとして活躍していた柏木ユリが産休に入る音楽教師の松山ハルコの代わりに、母校である中学校に赴任してくるところから物語は始まります。松山ハル子と柏木ユリは中学校時代の同級生です。ユリは合唱部の顧問も任されるのですが、いつも無表情で生徒たちへの関心はゼロに近い。その理由は後になって分かってきます。
 東京でピアニストとして活躍していた柏木ユリが1年間とはいえなぜ音楽教師として五島列島の中学校に赴任して来たのか、何故ピアノを弾かないのか、いや弾かないのではなく弾けなくなっていたのです。1年前のことでした。コンサート前の控え室で、赤いドレス姿のユリは恋人に携帯で電話をかけていました。なかなかでない彼にいらだって電話を切ります。いよいよ出番でスレージに向かおうとしていたとき携帯が鳴りました。彼からの電話番号が表示されています。「もしもし」と不機嫌な声で出た電話から聞こえて来たのが、消防庁の職員の声でした。「この携帯の持ち主が、今、バイクの事故にあった。激しい雨の中、かなり飛ばしていたみたいなので、スリップして車にぶつかった。これから病人に搬送するが危険な状態だ。知り合いだったすぐに病院に来てほしい」という電話でした。ユリが病院に掛けつけた時には、もう彼は息をしていませんでした。雨の夜なのにバイクのスピードを挙げたのは、私のせいだ。私が怒っていたからだ。ユリはこの日依頼、ピアノに触れることができなくなっていたのです。楽しそうに見える合唱部の生徒たちが実は抱えている辛さや痛みをユリは知って行くのです。その出会いが彼女の閉じられていた心をたたき始めるのです。
 そしてユリは中学の卒業文集に将来の自分に宛てて書いていた手紙を読み直し始めました。「3年2組柏木ユリ 私の将来の夢はピアノで世界中の人を幸せにすることです。音楽は誰かを救ってあげられると思うからです。・・・将来の私は、誰のためにピアノを弾いていますか?あなたのピアノで、誰を幸せにしていますか?」同級生だった音楽教師松山ハルコから「読み直してみたら」と手渡されていた卒業文集を開いたユリはこの自分の綴った文を読み、自分に向き合い直すのです。恋人を失ったことで自分を責め、ピアノを弾く意味を見失い、弾けなくなっていた自分と向き合いなおさせられて行くのです。「ピアノで世界中の人を幸せにする。音楽は誰かを救ってあげられる」そう思っていた。でもそうではなく、自分が誰かによって救われる。自分自身が生徒たちと出会い、音楽によって救われいく、そのことにユリは気づくのです。

◆「新しい人を着る」とはそういう気づきを与えられて、生きることの方向が転換させられていくという体験なのだと思うのです。

2015年9月27日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2015年9月27 日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第19主日
説 教:「あえて選ぶ」
 牧師 望月修治
聖 書:ヤコブの手紙
  2章1~9節(新約p.422)
招 詞:アモス書9章13-14節
讃美歌:24、157、476、544、91(1番)
交読詩編:73;21-28(p.80上段)

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