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2015年9月6日の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2015.9.6   ルカによる福音書14:25-33 「腹を据えよ」              

◆ イエスは家族について厳しい言い方をしています。例えばルカ8:19-21あるいはマルコ3:31-34では、イエスが大勢の人にかこまれて話しをしていたとき、母と兄弟姉妹たちが来ていると知らされたイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、さらに周りにいる人たちを見回して「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と語ったことが記されています。それから今日の箇所です。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」とイエスは大勢の群衆に向かって語っています。そしてもう一つは18章29-30節です。「イエスは言われた。『はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。』」  これらの言葉にどうしても戸惑いを覚えます。加えていずれも信仰を持って生きること、神の招きに応えるとはどうあることなのかを示すときに語られているものですから戸惑いは一層深まります。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、更に自分の命まで憎む」・・・・そんなことまでしなければ「わたしにふさわしくない」「イエスの弟子ではない」というのであれば、とても実現される可能性などないと言わざるを得ない要求だと思うからです。

◆ 旧約聖書でも神の招きに答えることがやはり同様の言い回しで語られています。例えば創世記の12章にはアブラハムが神の招きを受ける場面が描かれていますが、そこでも次のように語られています。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。「生まれ故郷」とは、直訳すると「あなたの地から、あなたの親族から」となります。これに「父の家から」が加わっていますので、神の招きに答えるということは、それまで住んでいた土地、親族という血縁の深い繋がり、そして父の家という最も身近な繋がりからも離れることだというのです。古代世界では人は土地や家と堅く結びついていましたから、そこから離れるということは生活の根幹、生きることの支えとしてきたものが変わってしまうことです。言い換えるならば、神の呼びかけに応えること、信仰を持つということは、それまでの生活の中に新しいものが加わる、新しいメニューが追加されるというイメージではなく、全体が新しくされるということです。アブラハムがチグリス、ユーフラテス川流域の町ハランを離れて、はるばるパレスチへと移住するという距離の移動の大きさは、その根本的な変化を具体的なイメージとして表しています。

◆ 神はアブラハムに「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と求めました。イエスは「父、母、妻、子供、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」と語りました。これは厳しい要求です。そして私たちはこの言葉を聞き手の立場で受けとめ、戸惑います。しかしこの戸惑いの中で、私たちの心が揺さぶられて一つの壁を越えて、このような求めをする側に私たちの思いを広げて、あるいは置き直してみるということが起こります。「あなたの生まれ故郷、父の家を離れなさい」という神の側に、あるいはイエスの側に思いを置き直してみてはどうだろうか、何が見えてくるだろうか、ということです。

◆ イエス・キリストは十字架にかけられて地上での命を終えていきました。このイエス・キリストの十字架の出来事が持つ意味を、神が私たちの傍らにいるために、そのような痛みと厳しさを味わい引き受けたのだと私たちは受けとめています。イエスはまさに自分の命まで捨てて、私たちの友となり、傍らにいようとしてくださるのだということの裏返しの形で語ったのがイエスの言葉なのです。愛されること、迎えられることだけに慣れすぎると、愛する側、迎える側の立場に立つ者のことを忘れてしまうのです。迎える側が引き受けている備えや労苦、心遣いに気づかなくなってしまうのです。心を揺さぶられることで、自分を覆っているもの、包んでいるものを取り去って、生の自分に向き合ってみたときに、そのような自分がなお受け入れられ、迎え入れられていくことが、どんなに大きな慰めであるか。その慰めを与えるために神が私たちの傍らに立ってくださること、そのことを気付かされていくことが起こるのです。

◆ 生き方が丸ごと転換するということは、自分の立ち位置を受ける側、愛される側に置き続けるのではなく、愛する側、迎える側に置き直してみることです。そんなふうに自分の立つ位置を変えていくときに、神は私たちの有り様を変えて下さる。私たちが何でも引き受けて生き方を全部変えなくてはいけないと言っているのではありません。そうではなく立つ位置を変えてみるのです。神が求めているのは、イエスが求めているのはそのことなのだと思っています。その時に、見えるもの、気付かされるもの、そこに神は本当に豊かなものを備えておられる。立つ位置を変えたときに聖書の物語は私たちの中に本当に新たな光を投げかけるものとして、立ち上がってくるのです

◆ 神の呼びかけに応えること、あるいは信仰を持つということは、それまでの生活の中に新しいものが加わ
る、新しいメニューが追加されるというイメージではなく、全体が新しくされるということです。その変化の大きさを伝えるために、イエスは衝撃的な言葉を用いたのだと思います。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」 家族に関するイエスの一連の発言から何を読み取ることが出来るでしょうか。思い浮かんでくるひとつは壁を低くするという生き方です。自分の家族に抱く思いの深さ、又家族を守り養うための家や畑を握る力の強さ、それを、壁を少し低くして流れ出させる。いろいろな人たちと一緒に生き合うために少し壁を低くして注ぎ出す、そのような生き方への転換をイエスは促しているのではないでしょうか。

◆ 家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てるとはラディカルは言葉です。この激しさの中に、心の思いを限られた人たちだけに向けるだけで終わろうとすることを揺り動かし、そして繋がりを広げることが実はどんなに多くの恵みを与えてくれることか、心を温かくし慰め癒してくれるか、生きていく希望を与えてくれるか、それを知ってほしいとイエスは願ったのではないか。人が自分の暮らしだけに思いを閉じこめてしまうのではなくて、暮らしの垣根を低くしてお互いの生活に思いを広げあいながら生きることをイエスは問いかけたのではないでしょうか。

◆ 自分の立ち位置を、受ける側、愛される側に置き続けるのではなく、愛する側、迎える側に置き直してみる。その時に、見えるもの、気付かされるもの、そこに神は本当に豊かなものを備えておられる。立つ位置を変えたときに聖書の物語は私たちの中に新たな光を投げかけるものとして、立ち上がってくるのです。

2015年9月20日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

聖霊降臨節第18主日
説 教:「お金のはなし」
 牧師 髙田 太
聖 書:テモテへの手紙Ⅰ
  6章1~12節(新約p.389)
招 詞:アモス書8章11-12節
讃美歌:25、7、522、530、91(1番)
交読詩編:49;2-13(p.53下段)


※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。
どなたでもお越しください。

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