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2015年6月28日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2015年6月28 日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第6主日
説 教:「ペトロの不思議な旅」
牧師 望月修治
聖 書:使徒言行録
 11章4~18節(新約p.235)
招 詞:ルツ記1章15-16節
讃美歌:29、120、451、453、91(1番)
交読詩編:22;25-32(p.24下段)

※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルで行われます。どなたでもお越しください。

2015年6月14日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2015.6.14 こどもの日合同礼拝  マタイによる福音書5:43-48 「神さまにタッチ」  

◆ こどもの教会の礼拝では、毎週リーダーが交替でお話しをしています。それはお話のリレーだと思っています。イエスさまのことを、聖書の話を1年間リレーしてつないで行くのです。イエスさまのお話をリレーするって素敵だなと思っています。でも、ときどきリレーが難しいなと思うときがあります。イエスさまのお話というバトンを渡す、次の人にタッチする。前の人から「はい、次はヨロシク」とタッチされる、バトンを渡されて難しいなと思う時があります。今日の箇所がそうです。

◆ こう書いてあります。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
「敵を愛しなさい」とイエスさまは言っておられます。敵や自分を迫害する者を愛しなさいと言われても私たちにはなかなか、というよりもたぶん出来ません。自然にそのようすることはできません。敵を愛する、それはわたしたちにとって、とても難しいことです。そんなことはとても出来ないなと思ってしまいます。自分を迫害する者、意地悪する人のことを憎たらしいと思わずにすますなどということはできそうにありません。

◆ そんな私たちにイエスさまは、それでも何とかして敵を愛しなさい、迫害する者、意地悪する人であっても愛するように頑張りなさいと言っておられる、というのではありません。自分を迫害する者のために<祈りなさい>と言っておられます。しかし、私たちは自分を迫害する人のことを愛したり、心から祈るなどということはまず出来ません。だとすればイエスさまは、わたしたちが出来そうにないことを「しなさい」と言っておられるのでしょうか。イエスさまは、憎らしいと思う気持ちを無くすことができない私たちに、それを無くしなさいと言っておられるのではなく、憎らしいという気持ちを相手に直接ぶつける前に、神さまを通してご覧なさい、と言っておられるのだと思います。それが「祈りなさい」ということの意味です。「祈る」ということは「神さまにタッチする」ことです。

◆ 幼稚園でともだちと喧嘩することがありますね。そんなとき先生が来てくれます。「どうしたの?」と二人に聞いて下さって、それは○○ちゃんが順番抜かしたからだね、お友達が遊んでいたオモチャを「貸して」っていわないで取っちゃったからだね、と言って「○○ちゃんなんてきらいだ!」という気持ちが優しくなるようにして下さいます。神さまにお祈りしなさい、神さまにタッチしなさいとイエスさまが言われるのは、喧嘩をしているとき先生が傍に来て下さるように、神さまが私たちの傍にいて下さって「憎たらしい」と思っている気持ちが柔らかくなるようにして下さるからです。気持ちが柔らかくなると、いろいろな思いが広がるし、今までとは違った見方が増えてきます。

◆「雨の日の花」という詩を読みます。髙田敏子さんの詩です。
   雨がふっている/花は咲いている
   花の上に落ちる雨/悲しんでいるのは/雨だった
   花をよけて/雨は降ることができない
   花は咲いている/雨の心をいたわり、うけとめて
   花びらに 雨の心を光らせて/花は咲いている
 花を避けて降ることはできない、そのことを雨は悲しんでいる。花はそんな雨の心をいたわりながらちゃんと雨を受けとめている。イエスさまが「祈りなさい」といわれたのは、神さまにタッチすると、雨の気持ちも花の気持ちも両方考える、そんな心の広がりが生まれてくるからだと思うのです。

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